前橋城 (まえばしじょう) (厩橋城)(まやばしじょう)
所在地 群馬県前橋市大手町1‐1 2013.11.20 2015.1.14
前橋城 (まえばしじょう) (厩橋城)(まやばしじょう)
所在地 群馬県前橋市大手町1‐1 2013.11.20 2015.1.14
県警本部庁舎東側の土塁
北側入り口土塁
土塁・県警本部庁舎
土塁上の前橋城址之碑
前橋城 石碑(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 本丸跡地には平成十一年(1999年)に竣工した地上33階・地下4階の鉄筋コンクリート建の群馬県庁本庁舎が建てられ、群馬県警本部の北から東かけて土塁が現存する 。
また、二の丸跡地には前橋市役所が建てられ、三の丸跡地は前橋地方裁判所となっている。
三の丸外郭の地が明治三十八年(1905五年)に整備され、前橋公園となった。
【歴史】 天文三年(1534年)利根川の氾濫により石倉城の本丸、二の丸に水路が流れ込み、残った三の丸を拠り所に、十五世紀末、箕輪城の支城として長野氏により再築された城が、後に厩橋城と呼ばれるようになったという。初代城主は長野左衛門尉方業(まさなり)とされている。
天文二十年(1551年)、厩橋城の長野氏は上野国に侵攻した後北条氏に付いた。 永禄三年(1560年)、景虎の長尾軍が厩橋城を攻め取り、本拠を平井城より移した。この際に厩橋長野氏を中心とする厩橋衆は分解した。
永禄六年(1563年)小田原北条・甲斐武田の連合軍により攻め落とされた。城はその後再び上杉家に取り戻され、越後北条城の北条高広が城代に据えられた。
だが永禄十年(1567年)にはその北条高広が北条陣営へ寝返ったことにより周辺は再び北条家の勢力圏となった。その後、越相同盟によって北条高広は上杉家へ帰参することが取り決められ、厩橋城は上杉方に引き渡された。
高広は謙信の死後の天正七年(1579年)勝頼率いる武田方に降伏、引き続き城代として残るも、天正十年(1582年)三月に武田氏が織田信長によって滅ぼされると織田方の滝川一益に城を引き渡した。
同年六月の本能寺の変の後、神流川の戦いで北条氏直に敗れた一益は上野国から撤退、厩橋城は後北条氏の手に入った。
天正十八年(1590年)小田原征伐に際して豊臣方の浅野長政により攻め落とされ、同年八月、関東を任された徳川家康が家臣平岩親吉を厩橋城に置き3万3千石を与えた。
関ヶ原の戦いの翌年・慶長六年(1601年)、甲府藩に移封となった親吉に代わり、酒井重忠が厩橋藩3万3千石を任され城に入った。重忠は城の大改修を行い近世城郭へと変貌させ、城には三層三階の天守も造営された。
十七世紀中頃から十八世紀初頭、酒井忠清から忠挙の代に、厩橋の地は「前橋」と改められ、城も「前橋城」と呼ばれるようになった。しかし、大老酒井忠清を出すほどの名門が置かれたのとは裏腹に、前橋城は利根川の浸食を受け続け、十八世紀初頭には本丸の移転を余儀なくされている。
寛延二年(1749年)播磨国姫路藩に転出した酒井氏と入れ替わり姫路より松平朝矩が15万石で前橋城に入った。
明和四年(1767年)、利根川の浸食を受けた本丸が崩壊の危機に曝され借財が多かった松平氏は前橋城を放棄し、武蔵国川越藩(川越城)に移封された。前橋藩は廃藩となり、川越藩の分領としての陣屋支配となり、前橋城は明和六年(1769年)に破却された。
領民の前橋城再建・領主帰城の願いは強く、文久三年(1863年)十二月、時の川越藩主松平直克は遂に幕府に願い出て前橋城の再築を開始した。領民による出資や労働奉仕を受け前橋城は竣工、慶応三年(1867年)三月、直克が入城し前橋藩が再興した。
明治四年(1871年)の廃藩置県により前橋城本丸御殿に前橋県の県庁が置かれたが、他の建屋は取り壊された。