那波城 (なわじょう) (堀口城)
最寄地 群馬県伊勢崎市堀口町502−1 2015.9.21 2017.11.28
那波城 (なわじょう) (堀口城)
最寄地 群馬県伊勢崎市堀口町502−1 2015.9.21 2017.11.28
本丸跡碑
城址碑・説明板
天増寺の那波小太郎小次郎の墓
那波小太郎小次郎の墓の説明板
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 名和小学校(表記番地)の県道18号線に面して「那波城址碑」の石碑、説明板が建てられている[マップコード20 442 336*38] (地図)。城址碑(昭和9年建之)の裏面に歴史が記載されている。
また、東約250mにある市立名和幼稚園(堀口町260)の西道路の南の田圃横に「那波城址本丸跡」の石碑が建てられている[マップコード20 442 466*84] (地図)。田圃と学校敷地となり、遺構は見当たらない。
天増寺(伊勢崎市昭和町1645)の本堂左に「那波小太郎・小次郎の墓」があり、説明看板が建てられている[マップコード20 564 688*08] 。
説明板によると、 天正十八年(1590年)赤石城主那波駿河守顕宗は小田原攻めに参戦中の上杉景勝に帰順の意を表するため出向いた。赤石城には、那波小太郎宗昌・小次郎宗繁兄弟が、留守を預かっていた。四月二十六日、粕川東岸で不穏な動きの報に接し、出向きその際の戦闘で討死した(享年18、16歳)。遺骸は、現天増寺に塚が築かれ弔われた、というものである。
【歴史】 那波氏は遠く平城天皇の皇子阿保親王の流れで、本姓は大江氏である。
鎌倉時代初め、大江広元の3男・大江宗元(政広)は上野国那波庄を領し那波氏を称した。子孫は代々ここに住したが 、初め小泉に住し、後堀口に移り、また今村力丸等に城塁を築いた。
戦国時代、那波宗俊は赤石城に拠って威勢を振るった。関東管領上杉顕定に属し、北条氏と戦って功を上げた。後上杉輝虎に従い、金山城主由良成繁と戦って斃れた。
その子顕宗は上杉景勝に従い、天正十九年(1591年)陸奥九戸の乱で討死し、那波氏は滅亡した。『碑文より抜粋』