女渕城 (おなぶちじょう) (市の史跡)
所在地 群馬県前橋市粕川町女渕1174−1 2021.8.12
女渕城 (おなぶちじょう) (市の史跡)
所在地 群馬県前橋市粕川町女渕1174−1 2021.8.12
女渕城址公園
三の丸(御霊神社)西の空堀
三の丸の御霊神社
本丸南東の濠
本丸
本丸にある石碑・説明板
本丸北の濠
民家の北曲輪碑
西曲輪の民家・城址碑
女渕城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 前橋市粕川町女渕に築かれた平城で、北曲輪、本丸、二の丸、三の丸、西曲輪から構成され、本丸周囲に水堀がよく残っている。
二の丸は駐車場となり、城址公園は縄張り図によると濠跡で、埋められ公園化されたと思われる。
【案内】 「女渕城址公園」の駐車場(二の丸)が利用できる[マップコード20 894 138*38]。
三の丸は御霊神社(表記番地)境内となり、西側に土塁、空堀が残っている。
本丸は東西約40m南北約30mの広さで、周囲に水堀が巡らされ、北東隅に本丸碑や説明板が建てられている。
本丸の北の民家に通路に面して、「女渕城址北曲輪」の石碑が建てられ(地図)、西曲輪の民家入口に「女淵城跡」の碑が建てられている(地図)。
昭和四十九年(1974年)5月1日、前橋市の史跡に指定された。
【歴史】 永禄四年(1561年)に上杉謙信によって攻略され、足利景長の家臣新居長重が城代となった。その後、矢場城主横瀬繁勝の家臣沼田景義が城主となっった。
永禄十二年(1569年)女渕城主・沼田景義は、父・沼田城主顕泰による異母兄・朝憲の殺害に端を発する沼田氏の内紛に敗れ、父・顕泰と共に家臣に追放されたと伝わる(『加沢記』)。
天正二年(1574年)再び上杉謙信が攻め落とした。天正六年(1578年)上杉謙信が死去した後、武田氏の支配下に入った。沼田景義は金山城主・由良国繁の援助を受け、天正九年(1581年)二月に旧領への復帰を目指して沼田城へ兵を進めている。
天正十年(1580年)武田氏が滅亡すると、女渕城は北条氏の支配下に入った。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐で、北条方の女渕城も攻められ落城、廃城となった。