小川城 (おがわじょう)
最寄地 群馬県利根郡みなかみ町月夜野1113−1 2015.8.29
小川城 (おがわじょう)
最寄地 群馬県利根郡みなかみ町月夜野1113−1 2015.8.29
説明板
空堀
本丸跡・四阿
小川城址碑
本丸櫓台
東側の腰郭
二の丸跡
二の丸壕跡
小川城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 名胡桃城の北3.4㎞に位置し、上越新幹線「上毛高原駅」の東、国道291号線に沿い表記番地の北に「小川城跡」の碑があり、駐車スペースがある[マップコード183 673 631*30]。
自販機の横に入り口があり、国道東に平行に深い空堀があり、その東に本丸跡がある。
虎口の右に高い土塁があり、祠が祀られ、「本丸址」の看板が建てられている。左手に、四阿、説明版「小川城由来」が建てられている。土塁が残り、東に「小川城址」の石碑が建てられている。東に一段下がって腰郭がある。
また国道の西の畑に「二の丸址」の看板が建てられ、二の丸壕跡が残っている。
【歴史】 室町時代、この地は小川郷として呉胡桃郷と共に村落が開け、奥利根ひいては裏日本を押える戦略上の拠点として重要な所であった。沼田荘田城主沼田景久が西の備えとして築城した。
沼田景久は次男次郎景秋を700貫匁(約3500石)の知行を与え住まわせ、北毛経営を固めた。
その後、文亀二年(1502年)正月二十六日二代城主小川三郎景祐は、元々素行優れぬ城主なる為度々の狼藉で追放された。その後赦免され、大峰山岳林寺の開基等を行い反省の色あるやに見えたが、再びの乱行や沼田本城への討ち入り等狼藉の果てに落命した。その後、弟秀泰が三代城主となった。
小川秀泰は勇将にして岡林斉と称し信望を集め沼田七騎の一人として名を馳せた。大永二年(1522年)秀泰が死去し、子彦四郎景奥の代となり、後北条氏の勢力が北関東の奥まった利根の地に伸びてきた。度重なる小競り合いの中、永正十七年(1520年)九月五日真夜中、景奥の長子景季は兵火の為若くして焼死した。
大永四年(1524年)の戦闘で、城は焼かれ景奥は煮えたぎる酢甕に落ちて落命し、嗣子なくその門葉の北能登守南将監等が城の修復を行った。そのころ上方より北面の武士(京都御所警備)であった赤松則村の裔である赤松捨五郎祐正が浪人となりこの地に来た。客分として城内に留まる内その才を認められ、景季の後家を娶り上杉謙信の裁可を得て名跡となり小川可遊斉と名乗った。
天文十六年(1547年)三月十五日沼田勢との菩提木の合戦で沼田勢は敗退逃走した。
天正八年(1580年)三月小川可遊斉は小田原の北条勢並びに沼田勢と再度菩提木の合戦を行い、可遊斉の戦略を用い勝利した。
この報に接した北条氏邦は激怒し、同年十月数倍の兵力で小川城を攻めた。小川可遊斉以下将兵は激闘の末、城は焼かれ多数の戦死者を出し、兼ねて用意の見城の柵に逃れた。
可遊斉はこの柵で指揮し大木大石等を投落とし北条勢を悩ますも、700mの高山で水や食糧補給に窮し、須摩野口より越後へ敗走した。小川城には小川氏門葉の一人北能登守が城代として居り、真田昌幸の配下として天正二十年(1592年)頃まで在城した。
その後何年か城代不明の時期を経て沼田真田氏の五代城主となった幼名兵吉は、寛永十五年(1538年)より18年間真田伊賀守信澄となり、五代沼田城主を継ぐまで三の丸の陣屋に居住した。
その後廃城となり、顧みられることなく永い年月草木に埋もれていた。『現地説明板』(武川健治氏:引用資料・加沢記・小川記・小川本城根元記)より。