龍ヶ谷城 (りゅうがいじょう) (吉田の楯)
最寄地 埼玉県秩父市吉田阿熊965 2018.9.6
龍ヶ谷城 (りゅうがいじょう) (吉田の楯)
最寄地 埼玉県秩父市吉田阿熊965 2018.9.6
登城ルート
入口
北側空堀
北側下段の郭・土塁
主郭北の空堀
主郭・北側土塁
南の郭
南尾根の堀切
龍ヶ谷城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 】
【感想】 秩父市吉田久長の赤平川に向けて南東に伸びた標高333mの丘陵先端部に築かれている。
北側のなだらかな尾根を100mほど下ると、容易に空堀に着く。空堀は倒木も多いが2条残っており、南の尾根にも岩場の深い堀切がよく残っている。
主郭は南と北側に土塁が残り、南側は広さがあり櫓台とも思われる。西側に虎口が開いている。
【案内】 県道284号線東の「阿熊集落センター」(表記番地)先から林道松場藤芝線が始まり、東に約2.3km行ったヘアピンカーブ付近に駐車し、擁壁左から西側に尾根が見えている[マップコード150 485 808*02](地図)。
踏み跡を辿って、尾根を南東へ約200m降ってゆくと、空堀に出る。
南に2段になった郭があり、主郭との間に空堀が残っている。
主郭は南北に夫々土塁があり南東尾根に岩場の堀切が残っている。
南麓の宅地(秩父市吉田久長529−32)より東に登った、給水タンク手前からも登ることが出来る。
【歴史】 築城年代は定かではないが、戦国時代に久長但馬守によって築かれたと云われる。
鉢形城の支城で、永禄十二年(1567年)武田信玄の侵攻の際、これを察知した阿佐見伊賀守玄光が「吉田の楯」に連絡して事なきを得た。また阿佐見玄光は武田軍を撃退した功により北条氏邦から感状を与えられた。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡すると、久長但馬守は上杉景勝に仕えたという。