金窪城 (かなくぼじょう)
最寄地 埼玉県児玉郡上里町金久保1566 2015.12.19
金窪城 (かなくぼじょう)
最寄地 埼玉県児玉郡上里町金久保1566 2015.12.19
城跡碑
土塁
金窪城址公園
黛神社
陽雲寺の畑時能供養墓
金窪城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 表記番地の北に「金窪城址公園」となっており、遊具が設置され、駐車場が用意されている[マップコード20 347 691*27]。
公園の南東に「金窪館趾」(裏面に由来文)の石碑や説明板が建てられ、石碑の裏に土塁が一部残っている。
昭和十年三月埼玉県旧跡となった。
北東に『児玉郡誌』に「丹党の氏族黛某の勧請せし神社なりと云ふ」黛神社(上里町黛1:地図)がある。
また、陽雲寺(上里町金久保701)の参道右側に畑時能の供養祠(墓)二基が安置されている。
【歴史】 治承年間(1177~81年)に加治家季が築城し、元弘年間(1331~34年)に新田義貞の武将畑時能や長浜六郎左衛門が居城したと伝えられている。
大永年間(1521~28年)斉藤実盛の子孫摂津守盛光が居城した。
天正十年(1582年)北条方に与した斉藤定利の時、神流川合戦で織田信長の家臣滝川一益に攻められ、落城した。
その後、天正十八年(1590年)徳川家康の関東入国によって、武田信玄の甥である川窪信俊の所領となって、陣屋がおかれた。
元禄十一年(1698年)川窪氏が丹波へ転封となり、廃城となった。『上里町教育委員会説明板』より。