木田余城 (きだまりじょう)
最寄地 茨城県土浦市木田余1465‐2 2015.2.21 2020.7.5
木田余城 (きだまりじょう)
最寄地 茨城県土浦市木田余1465‐2 2015.2.21 2020.7.5
説明板
常磐線・説明板
城跡碑
信太範宗の墓
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 JA集荷所(表記番地)の南東、常磐線の東側道路を約250m行くと説明板が建てられている[マップコード112 011 602*73](地図)。
常磐線の車両基地地下道を通って北に行くと、柵の中に「木田余城跡」の石碑(地図)が建てられている。常磐線により城跡は二分されているが、本丸があった中城・北堀・南堀・横堀などの地名が残っている。
常磐線の反対側約100mの道路横に、信太範宗と後を追って自殺した妻子の五輪塔墓があり、市の指定史跡になっている(地図)。
【歴史】 木田余城はもと、木田余台の「城の内」という所に在ったが、信太範宗の時、ここに移ったといわれている。
天文二十三年(1554年)八月(異説有り)範宗が謀殺されると、小田氏治(15代)が代って在城した。天正六年(1578年)佐竹義重の再度の攻撃で落城し、義重は城郭を破壊し、廃城となった。土浦城主の朽木氏は、木田余城の煙滅を恐れ、宝積寺を本丸跡に移した。
明治三十六年(1903年)汽車の飛び火により同寺も焼失し、旧本丸跡(本堂跡)は、水田中に一部畑地として名残りをとどめていたが、昭和五十九年(1984年)十二月車両基地の設置によって消滅した。『土浦市教育委員会説明板』より。