東城城 (ひがしじょうじょう)
所在地 埼玉県熊谷市上須戸829 2018.4.15
東城城 (ひがしじょうじょう)
所在地 埼玉県熊谷市上須戸829 2018.4.15
八幡大神社
八幡大神社
ゲートボール場
浅い空堀
東城城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 福川の南に隣接し、現在は微高地の八幡大神社境内や竹林となり、鳥居手前の竹林に踏み込んでみると、南側の民家との間に土塁が見られその先に浅い空堀の遺構が見られた。
【案内】 県道303号線から県道263号線に変る交差点を西に入るとすぐ北に駐車できる空き地がある[マップコード34 108 581*21]。
八幡大神社へ向かうと、表記番地の民家との間に竹林があり、その中に高さ2m以上の土塁と浅い空堀が残っている。
八幡大神社の背後は崖となり、境内南西側はゲートボール場となってかなりの広さがある。石碑などはない。
【歴史】 天禄年間(970~73年)太政大臣藤原伊尹(これただ)の子・義孝の次男藤原忠基が武蔵守となり荘園を開拓したのが始まりという。
藤原忠基の曾孫道宗は幡羅郡に住み幡羅太郎を名乗り荘園を拡大した。そして長元五年(1032年)この地に館(西城)を構えた。さらに、隣村の上須戸村に砦(東城)を築き道宗の長男助高も居住していた。
前九年の役で軍功のあった斎藤実遠が長井庄を与えられたため、道宗の子・助高は城を引き渡し、隣接する太田荘成田郷上之堀に居を移し、成田太夫を称し成田氏の祖となった。
助高の長男助広が成田氏を継ぎ、次男行隆が別府氏、三男高長が奈良氏、四男助実が玉井氏を名乗って分家した。
実遠は長井庄の南端に位置する西城は統治に適さないとして自然堤防上の大我井に館を構えて移った。
その後、西城城は成田氏のものとなり強化され戦国時代まで続いた。
戦国時代、文明十年(1478年)扇谷上杉氏の家宰太田道灌に鉢形城を攻め落とされ、鉢形城を追われた長尾景春が長井六郎を頼り、西城城の支城東城に立て籠もった。その後景春は東城を脱出し秩父地方の城を転々とし、最後に熊倉城を落とされ、古河公方の元へ落ち延びた。『埼玉の城址めぐり・西野博道編』より。