勝浦城 (かつうらじょう)
所在地 千葉県勝浦市浜勝浦221 2015.4.4
勝浦城 (かつうらじょう)
所在地 千葉県勝浦市浜勝浦221 2015.4.4
説明板
八幡岬公園入口
城址碑・八幡神社
子供の広場
お万の方銅像
展望広場
勝浦城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 太平洋に突き出た半島先端にあり、「八幡岬公園」(表記番地)となっており、専用駐車場が用意されている[マップコード287 187 023*12]。
車止より少し南に歩くと、八幡神社の石段横に「勝浦城址・養珠夫人生誕地」の石碑が建てられ、裏に碑文が刻まれている。
石碑には、「養珠夫人は名を満といい、天正五年(1577年)勝浦城主正木頼忠の息女としてこの地に生まれた。天正十八年落城の非運に遇い、海路伊豆に逃れたという。
のち徳川家康の室となり、頼宣・頼房の二子を産んだ。水戸光圀は夫人の孫に当たる。法華経に帰依して信仰の心篤く数々の優れた業績を残し、承応三年(1653年)77歳で没した。養珠院は頼宣によるおくり名である。」と刻まれている。
神社の南の低地に「子供の広場」があり、高台に主郭「展望広場」があり「お万の方銅像」が建てられている。お万の方が絶壁を、布を伝わって下りたという「お万布ざらし」伝説は、八幡神社裏の断崖絶壁が舞台である。
【歴史】 半島の天然の険しい崖の上(八幡岬)に築かれた海城(要害)で、築城経緯・時期などの詳細は不明だが、大永元年(1521年)真里谷城主・上総武田氏の一族の真里谷信興(信清?)が安房の里見義堯による北上阻止のために支城として築城されたという説がある。
その後、真里谷武田家の一族の居城となっていたが、真里谷武田家が内紛で勢力を弱めると、後北条氏と里見氏が上総に進出するようになった。
天文十三年(1544年)、里見方の正木時茂が大多喜城の真里谷朝信を滅亡させ、朝信の勢力圏を里見氏の傘下に収めたとき、勝浦城も里見方となった。
以後は正木氏の一族の正木時忠が入り、勝浦正木氏と呼ばれるようになった。時忠は後に後北条氏に寝返ったが、里見氏は勝浦城に激しい攻撃を加えこれを取り戻した。
天正九年(1581年)正木憲時の乱が起きたとき、正木三代頼忠(お万の父)は里見義頼に味方したため、憲時の攻撃を受け、一時落城した。憲時の乱が鎮圧されると、頼忠は勝浦城主に復帰した。
天正十八年(1590年)里見氏は上総国を豊富秀吉に没収され、勝浦城も本多忠勝や植村泰忠らの軍勢に攻められ、落城した。勝浦正木頼忠も所領を捨てて安房国へ去ることになった。頼忠は天正十年(1592年)に出家し、隠居した。