朝日山城 (あさひやまじょう)
所在地 山形県酒田市生石矢流川314 2015.6.13
朝日山城 (あさひやまじょう)
所在地 山形県酒田市生石矢流川314 2015.6.13
登城ルート
八幡神社
登り口
主郭西曲輪・奥に主郭切岸
主郭西側切岸
主郭
主郭東側・堀
朝日山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 酒田市生石矢流川の集落東側の山頂に築かれており、 八幡神社(表記番地)入口に駐車余地がある[マップコード352 022 807*35]。
石段を登った西側中腹にある拝殿の南東から登る。道は次第に草薮に覆われ、かき分けて登って行くと立木を伐られた斜面に出る(茨もあり鎌があったほうが良い)。
尾根(地図)を左に下って、登り小さなピークを越えると段々になった杉林の郭があり最高所に広い主郭跡がある。本丸の南東は深い谷を利用した空堀がある。説明板碑等は皆無であった。
【歴史】 治承・寿永の乱(源平合戦)以後、庄内地方に土着した初代池田彦太郎秀盛の後裔によって、建武年間(1334~38年)頃に築かれた山城であると言われ、以来、代々出羽池田氏が居城としていた。
安土桃山時代の城主16代池田讃岐守盛周(もりちか)の時、天正十六年(1588年)八月、十五里ヶ原の戦い(上杉氏と最上氏の戦い)において最上勢として参加、大宝寺義勝の擁する上杉氏家臣本庄繁長に攻められ最後まで抗戦するも降伏(朝日山城の戦い)し、大宝寺義勝に所領を安堵された。
慶長五年(1600年)、慶長出羽合戦において、子の池田盛邦及び舎弟の忠内と共に再び朝日山城に籠もった。上杉家臣・志駄義秀と戦い敗れるが、関ヶ原の戦いにおいて徳川方が勝利したことにより、最上勢が勝利をおさめた。
翌年、志駄義秀が酒田東禅寺城を開城し、庄内地方が最上氏の領地となると、盛周は旧功を認められ、旧領荒瀬郷古川村100石を賜り、酒田に入部した最上氏の重臣・志村光安に仕えた。
逸話として南北朝時代、朝日山城の麓を流れる川をはさんで、武士たちが矢をうち合って戦争をしたという。戦いの後、川下に矢が流れていったことから、以来その川の名を「矢流川」(やだれがわ)と呼ぶようになったという。