館山城 (たてやまじょう) (根古屋城)
最寄地 千葉県館山市館山351‐2 2012.8.27 2015.4.4
館山城 (たてやまじょう) (根古屋城)
最寄地 千葉県館山市館山351‐2 2012.8.27 2015.4.4
本丸虎口
模擬天守
城跡碑・説明板碑
八遺臣の墓
館山湾の眺望
伝義康御殿跡
館山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高60m】
【案内・感想】 「市立博物館」(表記番地)より400mほど大手道を登ってゆくと、比高約60mの山頂本丸に望楼3重4階の模擬天守が建っている。
犬山城を模して昭和五十七年(1982年)に再建された模擬天守であり、当時の天守の概要や外観については不明である。
この天守は現在、館山市立博物館分館(八犬伝博物館)として利用され、周辺は城山公園となっている。本丸からは館山湾の眺望が眼下に広がる。
また公園の南側の一段下がった所に、改易された主君忠義の非運の死を追って殉死した八遺臣の墓がある。茶室へ向かう途中に建物跡を石で表示された「伝義康御殿跡」(地図)がある。
昭和三十三年(1958年)6月16日、館山市の史跡に指定された。
【歴史】 天正八年(1580年)岡本城を居城にしていた里見義賴により築城され城番が置かれた。
義頼の後を継いだ義康が天正十六年(1588年)から天正十八年(1590年)にかけて改修したとされる。里見義康・忠義の居城であり、徳川家康が江戸幕府を開くと、外様大名となった。
慶長十九年(1614年)忠義は大久保長安事件に連座して安房を没収され、伯耆倉吉三万石(打吹城)に転封となった。
しかし実際は、百人扶持ほどの量米しか与えられず、配流と同じだった。房総における里見氏終焉の地であり、城は破却された。元和八年(1622年)六月十九日忠義が病死すると、後継ぎがないとして改易された。
天明元年(1781年)稲葉正明が館山藩主として入るが、城は再建されなかった。二代正武は寛政三年(1791年)、城山の南麓に館山陣屋を建設し、新たな政庁とした。稲葉家五代正善の時、版籍奉還となり正善は藩知事となった。
明治四年(1871年)の廃藩置県で館山藩は廃されて館山県となり、正善が県知事となった。同年十一月十四日、館山県は木更津県に編入されて廃された。
明治十七年(1884年)の華族令公布に伴い、正善は子爵に叙せられた。