石川城 (いしかわじょう) (大渕ヶ鼻城・大仏ヶ鼻城)
最寄地 青森県弘前市石川大仏53 2015.7.5
石川城 (いしかわじょう) (大渕ヶ鼻城・大仏ヶ鼻城)
最寄地 青森県弘前市石川大仏53 2015.7.5
大渕ヶ鼻城跡碑
多目的広場
お花見広場
大佛鼻城址之碑
追悼之碑・土塁
展望広場・大洪水紀念之碑・土塁
石川城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 老人福祉センター「祥風園」(表記番地)の南東高台に「大仏公園」となっており、桜や紫陽花、紅葉が植えられている[マップコード323 755 437*35]。
北西入口に説明板が建てられ、北の切岸下に「大渕ヶ鼻城跡」石碑が建てられている。
南東方向に多目的広場、その上段のお花見広場があり、「御製」歌碑が建てられている「弘前の秋はゆたけしりんごの実小山田の園をあかくいろどる」(海部俊樹書)。
標高97m比高40m最高所の展望広場(地図) に昭和十三年(1938年)8月22日の「大洪水紀念之碑」が建てられ、平川の流れや東北自動車道「大鰐弘前IC」、弘前鉄道大鰐線、南部清掃工場等が望める。
少し下った東に「大佛鼻城址之碑」、その先に「城主南部高信公主従追悼之碑」が建てられている。展望広場縁辺に土塁が残る。
【歴史】 石川十三館(大仏ヶ鼻城、岡館、猿楽館、月館、坊館、八幡館、寺館、高田館、茂兵衛殿館、寺山館、孫兵衛館、小山館、新館)の一つで、総称として「石川館」呼ばれ、石川館の本郭であった。
鎌倉時代、建武三年(1336年)津軽曽我宗家である平賀の曽我道性により築城されたと伝わる。
曽我氏はその後南部氏に滅ぼされ、天文二年(1533年)石川(南部)高信が石川城を居城とし、「大仏ヶ鼻城」と称した。
元亀二年(1571年)五月五日未明、南部高信は津軽為信に急襲され落城し、高信は妻子と共に自害し、家臣43名が討死した。その後為信は津軽統一を果たし、大仏ヶ鼻城は津軽家臣・板坂将兼が守った。
慶長十六年(1611年)弘前城築城後、堀越城などと共に廃城となった。