徳宿城 (とくしゅくじょう)
最寄地 茨城県鉾田市徳宿118 2016.2.11
徳宿城 (とくしゅくじょう)
最寄地 茨城県鉾田市徳宿118 2016.2.11
登城ルート
入口・城址碑・説明板
徳宿氏碑・土塁
主郭・稲荷神社
主郭・虎口土塁
主郭二郭間の二重空堀
2郭
徳宿城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道114号線の東に平行して通る道の表記番地の東に、城跡碑が建てられ、入口がある[マップコード239 047 682*87](地図)。
入口の階段を登ると、右手の南西から南にかけて腰郭がある。階段を登ると、主郭があり稲荷神社、「徳宿氏事蹟考碑」の石碑、宝篋印塔が建てられ、その先に土塁が残っている。又、階段付近に熊野三社権現、白鳥神社、八幡神社、出羽三山権現(石塔)、愛宕神社(石塔)、湯殿大権現(石塔)がある。
北に二重空堀があり、3郭(ビニールハウスの畑)に出る。土塁に沿って、右(東)に行くと、祠がありその南に、一部梅林の2郭がある(地図)。
鉾田市の史跡に指定されている。
【歴史】 平安時代末期、徳宿親幹(ちかもと)によって築城された。親幹の父・鹿島成幹は、桓武天皇の流れを汲む平国香から7代目で、常陸大掾氏一族の意向により鹿島郡を治め、その北部に徳宿氏を創立した。
徳宿氏2代秀幹(ひでもと)の長男・俊幹は安房と鉾田を含めた地域を譲渡され、安房(あんぼう)氏の祖となった(現在新宮小学校(鉾田市烟田1421)がある烟田城を拠点とした)。
文明十八年(1486年)徳宿氏9代道幹の時、水戸城を本拠とする江戸氏から攻撃を受けた。
江戸氏総勢2千余名に対し、徳宿氏は総勢3百余名、鹿行下総の大掾氏一族の援軍千五百名が到着する前に、もはやこれまでと覚悟を決め「今日の合戦は、討死と決したり、よって城外に打って出る。心ある者は我に続け」と馬に跨り、敵陣に踊り込み「名のある勇者は来たれや」と呼びかけ、江戸氏の兵と相刺して討死した。両軍多数の死傷者を出した合戦を勝利したのは江戸氏であった。『鉾田市教育委員会説明板』より。