高取山城 (たかとりさんじょう) (高取城)
最寄地 埼玉県入間郡越生町越生1015 2015.12.21
高取山城 (たかとりさんじょう) (高取城)
最寄地 埼玉県入間郡越生町越生1015 2015.12.21
登城ルート
絹会館
越生神社
登り口
虎口・城跡標柱
主郭・奥社
二の郭
横堀
高取山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【案内・感想】 「越生(おごせ)神社」(表記番地)に向かう途中、絹会館(葬祭場)敷地が居館跡とされている。越生神社境内に駐車出来、説明板が建てられている[マップコード91 470 113*22]。
神社裏に登り口があり(地図)、道標に従い左に行き、真中の堀道を300mほど登ると、虎口の石段左に城跡標柱が建てられている。
標高172m比高約80mの主郭には越生神社奥宮や石祠が2基、また土塁上に石祠が2基祀られている。東西約15m南北約25mの規模である。南に一段下がって二の郭があり横堀が残っている。他に段郭が数段見受けられる。
【歴史】 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「越生四郎左衛門屋敷跡」と記されている。
越生氏は、武蔵七党の一つ児玉党資行(すけゆき)の子・有行が越生郷に入り、越生新太夫を称したことに始まる。
承久三年(1221年)の承久の乱では、越生四郎有平・同四郎太郎・同右馬太郎らが宇治川の合戦で後鳥羽上皇方の武者5人を討ち取る功があリ、播磨国賀古荘(現加古川市)の地頭職を与えられた。
越生四郎左衛門は『太平記』登場し、暦応元年(1338年)五月の石津合戦で高師直軍に属し、南朝の北畠顕家(あきいえ)を討ち取った武将である。
越生氏は、時期は定かでないが、播磨国に移り、後赤松氏の家臣になったという。
一方現存する遺構は室町時代後半から戦国時代のものであり、文明十二年(1480年)太田道真・道灌父子と長尾景春の戦いを中心とした時期のものとみる見解もある。『越生町教育委員会説明板』より。