豊田城 (とよだじょう)
最寄地 茨城県常総市本豊田157 2015.2.21
豊田城 (とよだじょう)
最寄地 茨城県常総市本豊田157 2015.2.21
竣工記念の碑
竣工記念の碑・城址碑
豊田氏軍馬調練の場
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 小貝川の西約200mに位置し、龍心寺(常総市本豊田127)南の川南の道を200mほど南東に行くと、送電線鉄塔の手前に「豊田城址」、「中城土地改良事業竣工記念の碑」の石碑が建てられている[マップコード123 075 185*50](地図)。周囲は田圃となり、遺構は見当たらなかった。
また石下小学校(常総市新石下1907−1)グランド東、国道294号線に面して「豊田氏軍馬調練の場」があり、模擬櫓(格納庫)(地図)が建てられている。
国道294号線に沿って他に櫓(格納庫)(地図)、天守風建物(常総市地域交流センター)が建てられている。
【歴史】 桓武天皇の五代平国香より5代孫豊田将基が豊田氏の祖となった。その後、成基・基善・基重・基道・基友・基富・為基・基将・朝善・基安と続き、豊田氏12代善基は、この地一帯に築城して本拠地とし、若宮戸に祈願時として開基した龍心寺を現在地に建立し、隆盛を誇った。
その後、治基・親治・豊基・常演・基豊・基政・政親と続いた。戦国時代、文明十四年(1482年)、政親の子20代治親の時、多賀谷家植により攻められたが、堅固な城は落ちず、多賀谷氏は偽って和睦を申し入れ、重臣の白井全洞に金村雷神宮百ヶ日参詣を命じた。
社参した全洞は、境内において豊田氏老臣・飯見大膳を待ち受け、言葉巧みに近づき茶の接待を受け、大膳の息女を孫嫁に申し入れて親族の盃を交わし、豊田側不利を説き、寝返りの腹を探った。
主家の衰微ゆく様を憂い、身の行く末を案じていた飯見大膳は、全洞の「城主治親を討って返り忠すれば豊田城を分与する」との甘言に乗り、主君虐殺を決意し、天正三年(1575年)九月十三夜の月見の宴に事寄せて、主君治親を毒殺しようと私宅に招請した。
豊田氏の守護神金村大神宮は、吉凶の変事ある場合は必ず鳴動があると云われ、折しも奥殿に振動があり、宮司の「凶事の起こる恐れあり」との具申があった。間もなく石毛城より城主政重(治親の次弟)頓死の報せがもたらされ、月見の宴は中止となった。
十月下旬に入り、大膳は策をめぐらし私宅にて茶会を催した。治親夫人は不吉な予感で出向くことをとどまるよう懇願したが、治親は「飯見は我が家臣なり、別心あるべからず」と一笑に付し、家臣少数を従え大膳宅に赴き、毒酒を盛られて悲運の最期を遂げた。豊田城は逆臣により乗っ取られた。
多賀谷政経は大膳を呼び出し、縄掛けて豊田・石毛勢に引きわたした。豊田・石毛勢は大膳を裸身で金村台に連行し、主殺しの大罪人として金村郷士草間伝三郎の作った竹鋸を以て、挽き割り、大膳一族36人の首をはね、主君の無念を晴らした。『中城土地改良事業竣工記念の碑』より抜粋。