大光寺城 (だいこうじじょう) (大光寺新城)
最寄地 青森県平川市大光寺三村井70 2014.8.3 2015.7.5
大光寺城 (だいこうじじょう) (大光寺新城)
最寄地 青森県平川市大光寺三村井70 2014.8.3 2015.7.5
説明案内板
主郭北側・説明案内板
城趾碑・コミュニティセンター
亀甲門(追手門)跡標柱
不動堂
大光寺新城 主郭跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 大光寺新城は北の郭・主郭・袖郭・南の郭の四郭からなり、堀・土塁等の遺構は見当たらない。県道109号線と「大光寺ふれあいプラザ」(表記番地)や「大光寺コミュニティセンター」南の道に囲まれた約150m四方が主郭で城趾碑や説明看板が建てられ、大半は公園芝草地となっている[マップコード71 022 400*48] 。
南東側約100mに追手門跡がある(地図)。北の郭は県道109号線の北、大光寺城主の御館神の「不動堂」(地図)を中心とした約120mの円の中で住宅地なっている。
南の郭は平賀本町郵便局と主郭の間で住宅地となっている。袖郭は主郭の東(光城5丁目49を中心にした)の南北約150m東西約30mの細長い閣で住宅地となっている。
保食神社(平川市大光寺四滝本62)付近の古館、大光寺新城の北西の川に囲まれた五日市館から構成されている。どちらも遺構は無い。
【歴史】 平川市教育委員会の発掘調査で11世紀に築城されたことが判明した。大光寺(古館)が南部氏の支配下に入ると南部氏家臣・北信愛(のぶちか)が入り、その後、南部氏家臣・滝本播磨守重行が城主となった。
城下家数90軒、石高1万5、6千石(2万超とする文書もあり)を誇り、田舎館城、浅瀬石城、新屋城、尾崎城、高畑城、沖館城、乳井城、杉館、三ツ目内城を配下に置き津軽三大名の一つであった。その後信愛の子・北光愛が亡くなり、その子、六郎と七郎は幼少のため、滝本重行が後見し大光寺に残った。
天正三年(1575年)夏、大浦(津軽)為信が4千人もの大軍を率いて攻めてきた。第一陣は、乳井建清、一町田信清ら700人(館田口)、第二陣は小笠原信清、桜庭信正ら800人(大光寺城東側)、森岡信元、兼平綱則ら旗本千人(館田林の本陣)、さらに千徳政氏、葛西治部 (浪岡城、新屋城、尾崎城からの援護を遮断)を配置する大軍であった。
しかし、城代滝本重行が700人の手勢を率いて、本陣に切り込んだ。大浦為信は馬の足を泥田にとられるも、近習(桜田宇兵衛、または天童衛門四郎とも)の機転により辛くも窮地を脱し、堀越城に逃げ帰った。
しかし、天正四年(1576年)正月元旦、新年の祝賀中を大浦為信に奇襲され、支城の尾崎城、新屋城などと共に落城し、滝本重行は南部に逐電した。
北光愛の子、六郎と七郎は比内に去ったが、その後、天正七年(1579年)七月、滝本重行・北畠顕則らと共に千人の兵で津軽に侵攻した。
乳井茶臼館・乳井城を奪取し、その後沖館城を攻撃したが、城方の反撃で敗れる。その間に大浦為信は兵を集め、六羽川流域で衝突し激戦を繰り広げた。一時は、為信本陣まで突入したが、六郎が討ち取られ、諸将は比内へ逐電した(六羽川合戦)。
天正十年(1582年)には、乳井城主乳井建清が城主となった。慶長四年(1599年)、津軽為信の娘婿津軽建広が城主となるが、翌年大光寺城を去った。
慶長十二年(1607年)、為信の死後に起こった跡目相続に起因したお家騒動(津軽騒動)の際、津軽建広らが立て籠もったが、二代信枚の家臣高坂蔵人により攻略され鎮圧され、建広は追放処分となった。
慶長十五年(1610年)、弘前城築城のため破壊され、建材が利用された。また、弘前城亀甲門(北門)は、大光寺城の追手門を移築したものであり、本丸御殿の欄間は弘前の専光院に使われた。大光寺から弘前に移転した弘前市新町誓願寺の鶴亀門も大光寺城のものを移したと伝わる。
大光寺古館
保食神社
保食神社南側
大光寺古館跡(地図)
【歴史】 11世紀初期、曽我道性によって築城された。正慶二年(元弘三年・1333年)、鎌倉幕府が滅亡、北条一族の安達高景と名越時如が逃れてくると、大光寺曽我道性はこれを匿った為、岩館曽我光高や、成田泰次・工藤貞行によって攻め込まれ、大光寺城から石川城、持寄城に逃れ、敗れた。(大光寺合戦)
建武の新政後も大光寺城主として生き延び、足利尊氏の命を受けた相州曾我氏と共に南朝の根城南部氏と戦い、根城まで攻め入るも敗れた。
その後、根城南部氏の攻撃を受け大光寺曾我氏は滅亡した。大光寺古館は廃城となったものと思われる。
大光寺五日市館 (地図)
【歴史】 大光寺曽我氏滅亡後、暦応元年(延元三年・1338年)、藤崎城主の安東次郎左衛門秀光は、拠点としていた十三湊が大津波に襲われたため、大光寺の五日市館に築城し、大光寺氏を名乗った。
その後、大崎城主である奥州葛西氏の分流葛西頼清が大光寺へ来て、その娘を娶り、応永年間(1394~1428年)に大光寺城主になった。
永享年間(1429~41年)、南部守行に攻められ、南部氏の支配下となった。