河股城 (かわまたじょう) (御影館・牛ヶ城・臥牛城)
最寄地 福島県伊達郡川俣町鶴沢東13−1 2018.11.2
河股城 (かわまたじょう) (御影館・牛ヶ城・臥牛城)
最寄地 福島県伊達郡川俣町鶴沢東13−1 2018.11.2
登城ルート
川俣トンネル東側・城跡入口看板
2郭虎口
2郭
本丸北西の堀切
本丸・三角点
南西尾根の堀切(振り返った所)
南西尾根3番目の堀切
河股城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高100m】
【感想】 北東に川俣町の市街地を見下ろす標高322.5mの舘ノ山に築かれている。
3つの主要郭から構成され、北、西、南の尾根に堀切がよく残っている。
【案内】 国道114号線の「道の駅川俣」より東へ約2.2km行った「川俣トンネル」を抜けた東側に「かわまた城散さく道入口」の大きな看板が建てられている[マップコード129 867 737*15](地図)。東側の道路角の歩道が広く駐車できる。
遊歩道が整備され、標識も建てられ、迷う事はない。
舘ノ山頂上に本丸があり、三角点がある。北東へ伸びた尾根頂上に2郭があり、後裔により建立された「櫻田氏・居城の地」の石碑と説明板が建てられている。
2郭の100mほど北の遊歩道横の尾根と、主郭の北西尾根に堀切がある。
また、主郭の南尾根に細長い郭があり、南西へ続く尾根にも3条の堀切が等間隔で配置されている。
【歴史】 戦国時代の川俣は伊達氏南端の領地で、伊達氏の家臣であった勇猛を誇る桜田右兵衛尉資親が河股城に居城していた。
東は相馬氏、南は岩代の大内氏と領界を接し絶えず戦乱が続いていた。このような背景のもとに、資親の家臣安田勘左衛門を普請奉行として天正十二年(1584年)、河股城が構築されたと伝えられる。
天正十三年(1585年)伊達政宗は河股城に本陣を置き、大内定綱の小手森城や四本松城を攻め落とした。
その後、桜田資親が城主となっていたが、天正十八年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置きによって宮城県玉造郡吉岡へ移った。
慶長五年(1600年)上杉領時代には、駒ヶ嶺城主桜田玄蕃頭元親(資親の子)が河股城を攻略した。元親は河股城に籠もり誘き出した上杉軍と戦った。この合戦は、政宗の白石城攻略を成功させた陽動作戦であった。