加治屋敷 (かじやしき)
所在地 埼玉県飯能市中居100 2018.4.12 2025.2.18
加治屋敷 (かじやしき)
所在地 埼玉県飯能市中居100 2018.4.12 2025.2.18
宝蔵寺
墓地北側の空堀・土塁
墓地南の通路・西側の平坦地へ
墓地西の祠
切岸状の段差
平坦地北の段差(西から)
西側の堀状地形
平坦地南側の崖
加治屋敷跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 飯能市中居の高麗丘陵の南麓にあり、明瞭な遺構は少ないが墓地北側に逆Ⅼ字型の土塁と空堀が残っており、北側は浅くなっている(地図) 。
しかしながら傾斜地で居住性が悪くすっきりしないでいたが、「文化財総覧WebGIS 15127加治屋敷跡」によると墓地西側の舌状台地にマークがあるのを見つけ、再度訪れてみた。
墓地西側に祠があり、さらに西に切岸状の段差を持った平坦地が見られた。東西約40m南北約60mの長方形の平坦地で、北側に段差、南側は崖で、西側は堀状の窪地が南北に伸びている。ここが屋敷跡であろうか? 飯能市の史跡は案内標識など少なく何処も分かりにくい。
【案内】 国道299号線「中山陸橋西」交差点より北に行き「中山」交差点を右折、550mほど東の「中居」交差点より北に行くと宝蔵寺(表記番地)がある[マップコード91 114 353*66]。
墓地北側斜面の竹林の中にL字形に空堀・土塁が見られるが、居住空間は見られず北側は「飯能桜の森」で、自然のなだらかな丘陵となっている。
また墓地西側の舌状台地に平坦地が見られ、こちらが屋敷跡と思われる。
西方1㎞足らずの高麗丘陵の南麓に中山家範館がある。
【歴史】 武蔵七党の一つ丹党の秩父基房には男子が五人おり、嫡子直時が勅使河原氏を、恒房は新里氏を、成房は榛原氏を、重光は小島氏を、経家は高麗氏を名乗り、高麗五郎経家の次子の家季が加治氏を称したとされる。
『吾妻鏡』によると、建久元年(1190年)十一月七日の条に「加治次郎」(加治二郎家季)の名があり、鎌倉幕府の御家人であった。家季の長子豊後守家茂の系統が惣領家で、後に北条得宗家の御内人(みうちびと)となった。
家季の次子丹内左衛門尉助季の系統は庶家で中山氏を名乗った。
八条流馬術の名手であった加治勘解由左衛門家範(中山勘解由左衛門家範)は、天正十八年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐のとき北条氏照の命により八王子城を守り、前田利家、上杉景勝の猛攻をしのぎ勇戦奮闘した。利家はその勇武を惜しみ開城をすすめて助命しようとしたが、家範は自害した。
水戸藩御附家老の中山家は家範の子の信吉の代から始まっており、明治維新後は男爵に叙された。