観音寺城 (かんのんじじょう) (来次城) (きすぎじょう)
最寄地 山形県酒田市麓楯山62 2016.8.6
観音寺城 (かんのんじじょう) (来次城) (きすぎじょう)
最寄地 山形県酒田市麓楯山62 2016.8.6
登城ルート
登り口・説明板
天降神社
北の曲輪と主郭
主郭跡
主郭の土塁
東側空堀
観音寺城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 国道344号線より北に350mほど行った表番地の手前に「天降神社」が登り口で、説明板が建てられている[マップコード352 203 418*02]。駐車スペースは少ない。
用水路を渡り天降神社の右より登ってゆくと、平坦地に出て、笹、草をかき分けて南に行くと一段高く広い主郭がある。主郭の東側に土塁と空堀が残っている。
規模は東西約104m南北約82mと広い。
【歴史】 観音寺城主は来次氏と称し、その祖先は清原氏一族ともいわれている。
後三年の役(1076年)において、末弟の清原時衡は戦列を離れて羽黒山に入り、来次法林の役嗣となって山伏に身を投じ、神仏に奉仕したと云われている。
以来20代にわたり山伏として世を忍んできたが、氏房(山伏名 淳祐)の時代になると武家として再興を図ろうと、羽黒山を下り、八幡町常禅寺の山中に修験道場を構えたと云われている。
来次時秀の代になると、古楯の地(現在の八幡小学校)に、日向川の支流を巧みに利用した平城を築いたが、防備から見ると不適当で麓山に築城を開始した。
しかし、完成を見ず逝去し、22代氏秀の手によってようやく回字型の此の山城を構えた。
元和元年(1515年)の「枝城廃止令」によって、廃城となった。