左沢楯山城 (あてらざわたてやまじょう) (国の史跡)
最寄地 山形県大江町左沢2523 2015.6.11
左沢楯山城 (あてらざわたてやまじょう) (国の史跡)
最寄地 山形県大江町左沢2523 2015.6.11
登城ルート
八幡座南曲輪
虎口・段郭
八幡座主郭
八幡座北曲輪
八幡座南曲輪
八幡平先端(三の丸)の楯山公園・最上川舟歌の碑
最上川の蛇行
左沢楯山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【案内・感想】 朝日少年自然の家(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード407 805 054*30]。
楯山城は八幡座と呼ばれる北側丘陵と蛇沢を挟んで八幡平と呼ばれる南側丘陵に多くの曲輪を設けられている。全体は東西1300m、南北600mに及ぶ。
南東の三の丸には説明板、「左沢楯山城三の丸跡」の石碑が建てられている。また「古峰神社」石碑や「最上川舟歌碑」石碑、四阿が建てられており、眼下に蛇行した最上川の絶景が望める。
八幡座主郭へは「朝日少年自然の家」東の三叉路を左(北)に150mほど行き、右に登って行くと、杉林の中に曲輪が2ヶ所あり、左に登って行くと、虎口のある主郭に着く。
比高約30mの主郭西側が一段高くなっており、宗教施設があった。主郭の南の一段下に広い曲輪がある。
平成二十一年(2009年)2月12日、国の史跡に指定された。
【歴史】 14世紀後半に寒河江城主大江氏7代時茂(ときもち)が南北朝の争乱に備えて白岩・柴橋・寒河江・溝延などに一族の子弟を配して守りを固めた際、三男元時を左沢に配し、元時により築城されたと伝えられている。
元時は応安元年/正平二十三年(1368年)最上氏との漆川の戦いで敗れ一族60数名と共に自害したが、子孫は代々左沢氏を名乗り、楯山城を守った。
2代氏政、3代満広、4代時高、5代頼広、6代政勝と続き、7代満政の時、最上氏の侵攻の際、白岩氏・出羽吉川氏らと共に寒河江氏を援けて最上軍を退けた。8代氏政の烏帽子親を大宝寺氏が務めたという。
左沢氏から吉川宗家に養子として入った9代政周(吉川政周)は永正十一年(1514年)最上氏と伊達氏の争いにおいて、最上氏の援軍に赴き討死した。以後、左沢氏の系譜をたどることはできないが、天正二年(1574年)天正最上の乱で伊達側について立働く様子が見られる。
天正十二年(1584年)寒河江氏は最上義光に滅ぼされ、城は最上氏の支配となった。
元和八年(1622年)に最上氏が改易されると、酒井直次が左沢に入封した。直次は、寛永八年(1631年)にかけて小漆川の高台に新城・小漆川城を築城し、城下の造営に着手した。その後、左沢楯山城は廃城となった。