懸田城 (かけだじょう) (掛田城・茶臼山城)
最寄地 福島県伊達市霊山町掛田町田14−5 2014.4.15
懸田城 (かけだじょう) (掛田城・茶臼山城)
最寄地 福島県伊達市霊山町掛田町田14−5 2014.4.15
登り坂
段郭・金刀比羅神社
二の丸
本丸
櫓台・宮
腰郭・金華山神社
懸田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高120m】
【案内・感想】 霊山町の東、標高224.9m比高120mの古城山(茶臼山)にあり、階段状の郭が並んでいる。
「霊山総合福祉センター茶臼の里」(表記番地)の約50m北に駐車場があり[マップコード76 117 274*87](地図)、そこから茶臼山山頂の本丸(主郭)まで登山道が整備されている。
途中の段郭に金刀比羅神社があるが、2011年3月11日の東北大地震で倒壊したままである。
本丸の西の尾根に二の丸跡があり、本丸の東に櫓台・宮があり、一段下の腰郭に金華山神社が建てられている。
また階段状に帯曲輪があり「茶臼山公園」として桜が植えられ、放射能除染も兼ねよく除草整備されている。
【歴史】 鎌倉時代末期、源義家の後裔・高松定隆は正中二年(1325年)に杉野目郷(現戦の福島市)に高松城を築いて拠点としていた。
建武二年(1335年)に北畠顕家の命を受けて懸田に新城を築いて拠点を移し懸田氏を名乗った。
霊山城や藤田城と共に南朝方の拠点になった。その子孫は、伊達氏に従って南朝方の将として活躍した。懸田定隆の曾孫である懸田詮宗の代に伊達氏から養子を迎えた。
天文十一年(1542年)に発生した伊達氏の「洞の乱」(天文の乱)において、懸田俊宗は伊達稙宗の娘婿であった関係から稙宗を救出して懸田城に迎え入れて相馬顕胤らと共に伊達晴宗と対峙した。
天文十二年三月二十五日(1543年4月28日)には、父・稙宗救出のために懸田に入った亘理綱宗が兄・晴宗に討たた。乱は晴宗の勝利に終わり、晴宗は懸田氏に対して懸田城の破却などの過酷な講和条件を課した。
このため、天文二十一年(1552年)に懸田俊宗は息子の義宗とともに単独で反乱を起こすが、伊達晴宗に攻め滅ぼされたという。
後に永禄九年(1566年)に中目長政が懸田城に入り、関ヶ原の戦いの際にも上杉景勝に対抗するために、伊達政宗の軍が懸田城に進出た。その後間もなく廃城となった。
明治元年八月二十六日戊辰戦争で掛田市街角の境ノ入の小山や川俣街道付近で新政府軍と幕府軍仙台藩兵が激戦を展開したと『信達二郡村誌』にある。