山辺城 (やまのべじょう) (山野辺城)
所在地 山形県東村山郡山辺町山辺55 2015.6.11
山辺城 (やまのべじょう) (山野辺城)
所在地 山形県東村山郡山辺町山辺55 2015.6.11
縄張り図
説明板・城址碑
山辺小学校プール南台地(本丸跡)
本丸跡・山野辺陣屋玄関
山辺城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 山辺町立山辺小学校(表記番地)南側のプール横に「山野邊城址」(昭和12年)の石碑・説明板が建てられている[マップコード62 152 187*70](地図)。
山辺町消防団本部の建つ本丸跡地(旧役場跡)の高台に山野辺陣屋玄関が移築されている。山野辺陣屋は二の丸に当たる中央公民館(山辺町山辺1)敷地に在った。
【歴史】 前九年の役(1051~62年)の戦乱時に須賀川山辺氏が当地を領有し築城したという。
室町時代になると、山野辺氏の活躍が伊達家や各地の記録に見える。
永正十一年(1514年)山野辺刑部は、置賜の領主伊達稙宗が山形の最上氏を攻めた時、最上軍先遣隊として長谷堂城に出陣し、戦死した。その後、日野備中が城主となったが、慶長五年(1600年)の慶長出羽合戦で直江兼続率いる上杉軍の猛攻にあって、山辺城は落城した。
慶長六年(1601年)最上義光の四男山野辺義忠が19,300石で山野辺城主となり、領主として約20年間数多くの業績を上げ、最上宗家の当主として期待されていた人物であった。特に、山野辺城の完成と城下町の整備に意を注いだ。
しかし、元和八年(1622年)最上氏の改易により、山野辺城は廃城、破却された。
文政六年(1823年)白河藩阿部氏は出羽国の飛び地を支配するために、旧二の丸内(現中央公民館)に陣屋を設けた。その玄関は幾多の変遷を経た後、本丸跡の現在地に移され、山辺町文化財として指定されている。