水戸城 (みとじょう) (馬場城) (県の史跡・日本100名城14)
所在地 茨城県水戸市三の丸 2013.9.22 2020.6.5 2021.8.19
水戸城 (みとじょう) (馬場城) (県の史跡・日本100名城14)
所在地 茨城県水戸市三の丸 2013.9.22 2020.6.5 2021.8.19
弘道館正門
二の丸土塀(工事中)・空堀
復元大手門(正面)
二の丸角櫓
本丸空堀・水郡線
本丸の藥医門
水戸城 二の丸虎口(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 「水戸三の丸パーキング」(有料)が利用できる(水戸市三の丸1丁目3−3)[マップコード47 132 347*22]。
三の丸に市立「三の丸小学校」が建てられ、その北に、天保12年(1841年)水戸藩第九代藩主・徳川斉昭によって創設された藩校「弘道館」(重要文化財)が残っている。平成11年3月11日の東北大地震により、被災し改修工事中である。
二の丸の空堀には、県道232号線が通っている。空堀に架かる「大手橋」を渡ると、石垣、土塁が残る。
復元された大手門は、令和二年(2020年)2月4日から通行できるようになった。また復元土塀や二の丸角櫓は工事中であった。二の丸は、水戸第二中学校、水戸第三高等学校の敷地となっている。
2021年6月「二の丸角櫓」が完成し、水戸第三高等学校手前に通路が設けられているが、当日は新型コロナ感染拡大で蔓延防止期間中のため、入口が施錠されており、「水戸三の丸パーキング」のRF駐車場から「二の丸角櫓」を撮影した。
本丸の深い空堀には、水郡線が通っている。水戸第一高等学校の前に藥医門が残る。
昭和二十七年(1952年)3月29日、旧弘道館が国の特別史跡に指定された。昭和四十二年(1967年)11月24日、茨城県の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(14番)に選定された。平成27年大手門脇の瓦塀が発見発掘された。
【歴史】 常陸国の大掾(だいじょう)であった平国香の子孫・馬場資幹により築城された。
応永二十三年(1416年)上杉禅秀の乱で大掾満幹は、禅秀に加担し足利幕府方の江戸通房に敗れた。その後、江戸氏7代170年間の居城となった。
天正十八年(1590年)の秀吉の小田原征伐の折、江戸重通は北条方に加担し、佐竹義重・義宣父子は秀吉軍につき参戦した。これにより佐竹氏は常陸一国54万石を与えられた。
文禄三年(1594年)佐竹父子は馬場城に籠城する江戸重通を攻め追放した。佐竹義宣は、太田城より馬場城に本拠を移し、水戸城と名を改め大改修を行った。
慶長五年(1600年)関ヶ原合戦において義宣は曖昧な態度で終始したため、慶長7年家康により出羽国秋田へ転居させられた。
同年家康は、五男の武田信吉を入城させたが後継ぎ無く死去したため、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。
慶長14年(1609年)頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の頼房を下妻城より25万石で入城させた。
以後水戸徳川家の居城となった。頼房は天守閣を建てず、三階櫓(内部は五階)を二の丸に建てたが、昭和二十年(1945年)の水戸空襲で焼失した。