大槌城 (おおつちじょう) (浜崎城)
最寄地 岩手県上閉伊郡大槌町小鎚第32地割126 2014.8.15
大槌城 (おおつちじょう) (浜崎城)
最寄地 岩手県上閉伊郡大槌町小鎚第32地割126 2014.8.15
登城ルート(緑線は車道/緑丸は三の丸)
図書館前・城址碑・看板
代官所跡碑
駐車場・本丸入口
本丸跡・城址碑
二の丸跡・奥が本丸
三の丸跡
四の丸跡
大槌城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 標高141mの城山に築かれている4つの郭から構成された連郭式の城であり、駐車場が堀切と思われる。樹木は少なく全体の様子がよく分かった。
本丸からは2011年3月11日に起きた大津波による沿岸の破壊された堤防、建物基礎等の悲惨な爪跡が眼下に望めた。
【案内】 県道280号線の北、大槌町立図書館(表記番地)前に城跡碑・由来説明看板があり、下の大槌町役場前(大槌町上町1−3)に代官所跡の石碑が建てられている。
図書館東より山頂への道路が整備され、頂上付近に駐車場が用意されている [マップコード259 407 057*53]。
その西に砦跡(物見に使用)があり堀が駐車場となっており、東に本丸・帯郭があり一段下がって二の丸、そして階段状に三の丸、四の丸が設けられ、東西は400m南北50m~30mの稜線上にある。
遊歩道が整備され徒歩でも登ることが出来る。
【歴史】 建武年間(1334~36年)の頃、遠野横田城主阿曽沼朝綱が閉伊郡の沿岸地方の治安のために次男・遠野次郎を大槌に派遣し、大槌氏を名乗った。以後最後の城主孫八郎政貞が自刃して果てる元和二年(1616年)までの280年間、大槌氏代々の居城であった。
永享九年(1437年)、大槌孫三郎が岳波太郎に呼応して阿曽沼氏を攻めた際、阿曽沼氏を支援した南部十三世守行に大槌城は攻撃を受けた。
しかし、城の両側を流れる川など、天然の要害を生かして攻撃を巧妙に防ぎ、遂には流れ矢によって敵将南部守行を討ち取ったという。
その後大槌氏は南部氏の下で平田から豊間根までを支配し3千石を与えられた。孫八郎政貞は名産の塩鮭を江戸に送り「南部の鼻曲鮭」として珍重されたという。
元和二年(1616年)城主大槌孫八郎政貞は、南部氏の謀計により謀叛の嫌疑をかけられ粛清され、滅亡した。
大槌氏の滅亡後、派遣された南部氏城代もこの城を居城としていたが、寛永九年(1632年)南部藩の代官が置かれ、代官所は山麓の旧大槌小学校(現大槌町市役場)に設けられた。
南の平田村から北の豊間根村、内陸方面小国・江繋村に至る「大槌通り」23ヶ村を統治させ、代官は盛岡より派遣された。
大槌城は万治二年(1659年)南部藩によって取り壊された。
明治二年(1869年)代官所は廃止され備品は入札にかけられ払い下げられた。平成四年(1992年)9月4日、県の史跡に指定された。