新地城 (しんちじょう) (蓑首城)
最寄地 福島県相馬郡新地町谷地小屋舘前二85 2016.6.4
新地城 (しんちじょう) (蓑首城)
最寄地 福島県相馬郡新地町谷地小屋舘前二85 2016.6.4
登城ルート(緑線は車道)
入口標識
東館・駐車場
本丸虎口
本丸
内堀・西側土橋
西館
北館
新地城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 舘前集落の南を東西に走る直線道路の交差点に「新地城跡→」の大きな標識が建てられている。北に約200m行き、右折、道なりに約170m登ると、「東館」が駐車場となっている[マップコード332 169 452*51]。
「新地城趾会」の建物、説明板が建てられて、東虎口の土塁がよく残っている。
東西約60m南北約50mの広さの本丸には土塁が残り、北から西にかけて内堀がよく残っている。西虎口に土橋で結ばれた「西館」は、東西約120m南北約30mで、花壇として利用されている。
「北館」は殆ど藪化し、内堀にはチューリップが植えられている。全体的に保存状態は良好である。
【歴史】 永禄九年(1566年)頃、相馬氏によって築かれ、海道の境の城として、伊達・相馬氏の抗争に重要な役割を果たした。
相馬盛胤・義胤父子が、永禄年間に亘理の亘理元宗に加勢すべく出陣した帰り、盛胤が新地に泊まり、中島に谷地小屋要害を築いたが、平地館であり防御に難がある為、約1年後に新たに新地城(蓑首城)を築いた。はじめ門馬雅楽助、後に泉田甲斐を城代とし、西館には杉目三河を置いた。
天正十七年(1589年)伊達政宗は相馬義胤が田村に転戦している留守を突き、新地城・駒ヶ嶺城を攻め落とした。
この戦いで相馬方の杉目三河、木崎右近等が伊達陣に切り込み、戦死を遂げた。杉目三河の子を乳母が自分の子を犠牲にして助けた逸話が残っている。
政宗は新地城を亘理重宗に与え、坂本三河を城代として置いた。慶長初期には、大町三河を城代としたが、慶長五年(1600年)に、坂元への引き上げが命じられた記録があり、そのころに廃城となったとされる。