八戸城 (はちのへじょう)
所在地 青森県八戸市内丸1丁目1 2014.8.13
八戸城 (はちのへじょう)
所在地 青森県八戸市内丸1丁目1 2014.8.13
三八城公園・城址碑
本丸碑
城址碑
初代南部直房像
公園より八戸市街
八戸城角御殿表門
八戸城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 JR八戸線「本八戸駅」より南に300mほど行った八戸公会堂(表記番地)の北に三八城神社があり、北に三八城公園として整備されている[マップコード84 059 273*51] 。
本丸跡の碑や南部直房公坐像が建てられている。寛政九年(1797年)築造の角(すみ)御殿表門が現存する。
二の丸は本丸の東側、現在の八戸市内丸二丁目・三丁目(南部会館(内丸3-3-6))付近にあった。
【歴史】 南部師行が根城を築いた間もない時期に根城南部氏二代政長の三男・信助が根城の支城として築いたのが始まりとされ、築城時期・館の位置・規模については不明である。
その後、この一族は中館(なかだて)氏を名乗り、居城は中館と呼ばれた。
八戸は津軽領と接する要衝であったことから、南部氏27代利直は、寛永四年(1627年)に根城(八戸)南部氏を遠野城へ移した。
中館氏もこれに従い、八戸は南部(森岡)藩の直轄地として代官支配によって整備を行っていった。
盛岡城に移った重直(利直の三男)が寛文四年(1664年)世継ぎなく死去したため、4代将軍徳川家綱は新たに弟七戸重信(利直の五男)に盛岡藩8万石を、同じく弟中里直好(利直の七男)に八戸藩2万石を与え分割相続させた。
初代藩主となった直好は名を南部直房と改め、新たに居城を築くことなく、三八城山に既にあった盛岡藩時代の建物を引き継いで、館を修築して八戸城として使い、家臣団の編成と城下町の整備に取り組んだ。寛文五年(1665年)二の丸に馬屋が設けられた。
文政十年(1827年)南部信真より新御殿の普請が命じられた。文政十一年(1828年)古御殿の解体工事が行われた。
文政十二年(1829年)新御殿が竣工、二の丸に文武学校が新築された。天保九年(1838年)沿岸警備の功が認められ、幕府によって藩主が城主格になり、公式に城と称された。
明治四年(1871年)廃藩置県により廃城となった。明治七年(1874年)跡地に三八城神社が創建された。
昭和八年(1933年)道路建設のため、内堀が埋め立てられた。平成六年(1994年)三八城公園内で発掘調査が行われた。