小高城 (おだかじょう) (紅梅山浮舟城) (県の史跡)
所在地 福島県南相馬市小高区小高古城 2014.4.1 2017.7.8
小高城 (おだかじょう) (紅梅山浮舟城) (県の史跡)
所在地 福島県南相馬市小高区小高古城 2014.4.1 2017.7.8
南側石段・城跡碑
南側の段・鳥居
本丸跡
相馬小高神社
棚機神社
北西側切岸
北東の堀跡
小高城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 本丸跡は比高約10mの相馬小高神社の敷地となっている。南側の一段下がった鳥居の建つ平坦地は腰郭と思われる。
「相馬野馬追」の翌日、小高神社で裸馬を素手で取り押さえ神社に奉納する「野馬懸」が毎年開催される(7月28日)。
小高川の土手には桜が植えられ桜の名所として知られ、2011年3月15日の福島第一原発放射能放出で避難している近隣の母娘が満開の桜を見に訪れていた。
昭和三十三年(1958年)8月1日、福島県の史跡に指定された。
【構造】 城の北東から伸びる比高10mほどの丘陵の頸部を堀切で切る形で城を作り、城の南を流れる小高川を外堀としている。城の西から北にかけては水田が巡っており、堀であったと想定される。このように三面を水域と湿地で囲まれていたため、浮船城と呼ばれていたという。
現在は城の東に弁天池と呼ばれる堀跡が残っている。大手は車道のある東側で、現在作られている南側の石段参道は後年造られたもので、遺構とは無関係である。城の一部に土塁跡が残り、特に神社裏・北面の保存状況が良い。
【歴史】 元亨三年(1323年)四月、相馬重胤が下総国流山から移るにあたって、初め別所館に住み築城、嘉暦元年(1326年)に移った。
南北朝時代に、北畠顕家率いる南朝の軍勢に対応する為、建武3年(1336年)次子光胤に命じて修築したが、南朝の軍に攻められ一度陥落している。
翌1337年に城を奪還し、以後、約260年間に亘って相馬氏の居城であった。慶長二年(1597年)第十六代当主・相馬義胤が本城を原町市の牛越城に移し、小高城を支城とした。
ところが、北隣の伊達氏(本拠地:米沢、岩出山)との抗争が激化すると、相馬氏は中村城に城代を置いて伊達氏と睨み合った。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、相馬氏は佐竹氏(本拠地:常陸太田、水戸)に与した為に、関ヶ原の結果として領地を没収された。
しかし、伊達政宗が相馬義胤を擁護して徳川幕府を説得した為に、相馬義胤は旧領である浜通り夜ノ森以北への復帰を果たした。
慶長七年(1602年)牛越城より再び戻った。相馬氏が小高を本拠地にした要因は、南隣の岩城氏(本拠地:四倉、飯野平)を牽制する目的であった。
慶長十六年(1611年)義胤の子・相馬利胤は本拠地を城代所在地であった中村城に完全移転して、中村藩を立て、初代藩主となった。
この本拠地移転も、この小高城の狭さゆえであると思われる。
なお、茨城県行方市小高にも同名の「小高城」が存在するが、こちらは行方宗幹の子・太郎定幹によって築かれた。