天童城 (てんどうじょう) (舞鶴城)
所在地 山形県天童市北目(大字)988−1 2015.6.12
天童城 (てんどうじょう) (舞鶴城)
所在地 山形県天童市北目(大字)988−1 2015.6.12
案内板
北東の中央郭
主郭西の段郭
主郭・櫓台
主郭・愛宕神社
物見櫓台
南郭の段郭
天童城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高70m】
【案内・感想】 県道23号線より南に900m登ったところに駐車場が用意されている [マップコード62 345 884*26]。
北側の展望台の高所が中央郭で (地図)、南に行った丘陵が南郭であり斜面に3段ほどの段郭がある(地図)。
愛宕神社(表記番地)の建っている舞鶴山(標高231.8m・駐車場より比高70m)が主郭で説明板が建てられている。神社の横に物見櫓台がある。途中に航空灯の建つ曲輪などが段々にある。
東に下ってゆくと、東郭がある(地図)。東西1㎞、南北1.2㎞の範囲に及ぶ村山地方最大の山城であった。
【歴史】 南北朝時代、北畠天童丸が居を構えたとされるが、文中年間(1372~75年)最上氏の圧力により天童城を去ったという。最上直家の子天童頼直が養子として、里見氏の成生城に入っていたが、天授元年/永和元年(1375年)、天童城に移り天童氏を称した。
その後天童氏は一門を領内に分散配置することで村山郡に大きな勢力を築き、最上八楯の領袖として次第に最上氏と対立した。
天正五年(1577年)最上義光(よしあき)は天童城を攻め、天童氏は最上八楯の援軍を得て最上軍を撤退させるが、天正十二年(1584年)最上義光がまたも攻めると、延沢信景などの寝返りにより落城し、廃城となった。
天保元年(1830年)天童藩主として織田氏が入り、陣屋は、現天童市田鶴町に置かれた(天童織田館)。行政面を重視した近世後期の城郭であったが、戊辰戦争の際、焼失した。