岡本城 (おかもとじょう) (岡本根小屋城)
最寄地 栃木県宇都宮市中岡本町2389−1 2014.4.17
岡本城 (おかもとじょう) (岡本根小屋城)
最寄地 栃木県宇都宮市中岡本町2389−1 2014.4.17
登城ルート(緑線は車道)
二郭にある公民館・説明板
虎口・土橋
空堀
主郭・虎口
主郭跡・土塁
主郭土塁・空堀・二郭のソーラー
岡本城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道73号線沿いの「フェアリーベルメディカル」病院(表記番地)の向側より、細い道を東に約60m行くと「台岡本二区公民館」があり、駐車できる[マップコード39 699 281*57]。
そこから徒歩で北に行くと大規模ソーラーの敷地の二の郭跡がある。
北の土橋を渡ると主郭跡の虎口である。主郭は全周空堀で囲まれ、遺構は主郭周辺によく残っている。
二の郭以降の曲輪は、長年の開発により時代を経てほとんど壊滅しており、三重堀説と五重堀説があり、議論が分かれている。
【歴史】 14世紀前期、芳賀氏を出自とする岡本信濃守富高により築かれた。しかし、築城した富高が観応二年/正平五年(1351年)の薩山の戦いで討死すると、その跡を継いだ富高の子正高も貞治二年/正平十八年(1363年)に武蔵野における戦いで討死し、富高の血統は断絶した。
玉生氏の系図によれば、玉生信濃守富高が、貞治二年/正平十八年(1363年)六月十七日、武蔵国苦林野の戦いで討死すると、その戦功により、玉生氏は岡本郷を賜ったとある。
そ の後、玉生富高の弟である勝親(富武)が、岡本信濃守富武を名乗り、岡本城に入城した。
玉生氏は、塩谷氏を出自とする藤原姓の一族であり、富武は、藤姓岡本氏ということになる。玉生氏の系図によれば、玉生勝定(1459年生~1520年没)の娘が、勝親の子孫であろう岡本重親に嫁いでおり、この事から岡本城は、代々藤姓岡本氏の居城となっていたと考えられている。
玉生氏が芳賀高経の弟の重季を養子に迎えると、重季は、玉生氏の居城を岡本城に移す。
その後、文禄元年(1592年)から同四年(1595年)まで笠間城を居城とした時代もあったが、代々玉生氏の居城となった。
慶長二年(1597年)主君である宇都宮氏が改易されると、岡本城も廃城となった。