尾浦城 (おうらじょう) (大山城)
最寄地 山形県鶴岡市大山3丁目20−9 2015.6.13 2016.6.9
尾浦城 (おうらじょう) (大山城)
最寄地 山形県鶴岡市大山3丁目20−9 2015.6.13 2016.6.9
登城ルート
尾浦城址碑
本丸・三吉神社
本丸土塁
空堀・太鼓橋
隠居所跡
二の丸・古峰神社
西郭
尾浦城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 県道38号線より西に400mほど行った表記番地西に「大山公園」駐車場がある[マップコード90 302 150*63]。
三吉神社が本丸跡で西側に土塁が残り、空堀がある。
空堀の太鼓橋(太古橋)を渡った西に古峰神社の建つ二の丸(隠居所)がある。
更に西に行くと、西郭となり旭台(櫓台)があり、その先に「加藤嘉八郎有邦石像」が建てられている。尾根続きの高館山には詰の高館山城がある。
公園となり訪れる人も多く、土塁などの遺構も残っているが、太鼓橋の架かる空堀は見応えがある。
【歴史】 鎌倉時代初期に築かれたとされるが、詳細は明らかではない。
戦国時代、庄内地方に勢力を持っていた大宝寺氏は、天文元年(1533年)砂越氏維の攻撃によって、居城の大宝寺城が焼失した。大宝寺晴時は尾浦城に居城を移した。
大宝寺義氏は、最上氏の庄内侵攻を受けて、織田信長と貢物を献上して誼を通じた。
天正十年(1582年)に信長が本能寺において自害し、翌天正十一年(1583年)義氏は最上義光と結んだ家臣の前森蔵人らにより自害に追い込まれた。
義氏の弟・義興が大宝寺氏を継ぎ、越後国の本庄氏と結び本庄繁長の二男・千勝丸を養子とした。
天正十五年(1587年)、東禅寺義長は最上義光と共に尾浦城はを攻略し、義興は自刃した。大宝寺義勝と名乗っていた千勝丸は、実父の繁長の元へ逃げ延びた。その後、尾浦城は東禅寺氏の居城となった。
その後、庄内地方は最上氏の所領となり、義光は中山玄蕃頭朝正(光直)を尾浦城城代とした。
翌・天正十六年(1588年)、本庄繁長と義勝は小国口から鬼坂峠を越えて庄内地方へ侵攻した。東禅寺義長は弟の東禅寺右馬頭勝正を総大将として迎撃させ、尾浦城下の十五里ヶ原で両軍は激突し、数で劣る東禅寺勢は敗走した(十五里ヶ原合戦)。
合戦後、義勝は義興の跡を継ぎ大宝寺氏を再興したが、天正十九年(1589年)、一揆煽動の嫌疑をかけられ、豊臣秀吉の命により大和国へ改易された。その後、庄内地方は上杉景勝の領地となった。
しかし慶長五年(1600年)、関ヶ原合戦において西軍側に与した上杉氏は最上勢に攻められ、再び尾浦城は落城した。
戦後、庄内地方は最上義光の領地となり、慶長六年(1601年)には家臣の下治右衛門吉忠を配置して田川郡の抑えとした。吉忠はこの際に尾浦城を大山城と改称し、山頂に本丸を置いたものの大きな建物は設けず、主要な施設は麓に設けた。
元和元年(1615年)、最上家親の弟・大山筑前守が二万石を与えられたが、一国一城令によって大山城は廃城となった。
最上氏は元和八年(1622年)に改易となり、庄内地方の大部分は酒井氏の所領となった。酒井氏の時代、大山城には酒井氏の分家や代官が置かれた。