横尾八幡城 (よこおはちまんじょう)
最寄地 群馬県吾妻郡中之条町赤坂207-1 2015.9.21
横尾八幡城 (よこおはちまんじょう)
最寄地 群馬県吾妻郡中之条町赤坂207-1 2015.9.21
説明板
登城ルート
入口・説明板
登り口
虎口
本丸跡
腰郭
横尾八幡城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道145号線(日本ロマンチック街道)の「平」交差点より北に400mを左折し、県道231号線の「中之条名久田郵便局」(表記番地)の西100mに説明板が建てられている。
そこより北に登り、三叉路を西に登って400mほど行くと、カーブミラーがあり左に草の道があり短時間、駐車した[マップコード295 689 474*44](地図)。
すぐに左に登る道があり、少し行くと土塁に囲まれた本丸がある。本丸跡は、土塁をめぐらせ、「八幡城址」の標柱が建てられ、、横に仏像が祀られている。東側は草藪となり南に虎口、腰郭がある。
昭和六十三年(1988年)3月28日、中之条町の史跡に指定された。
【歴史】 大永年間(1521~28年)に尻高三河守によって築城された(『吾妻記』)、と伝えられている。
後に塩原源太左衛門が城代となり、天正八年(1580年)真田昌幸の吾妻進出によって富沢豊前守が配置された。
天正十年三月武田氏の滅亡、同年六月本能寺の変による滝川氏の退去により、北条氏が進出し利根・吾妻二郡を支配していた真田氏と対立した。
天正十二年(1584年)信州上田に城を築いた真田昌幸は、上州の利根・吾妻二郡の支配を長子信幸に命じた。信幸は北条氏に備えて、横尾八幡城に吾妻の武士たちを番衆とした。
天正十六年(1588年)四月二十六日「八幡山番帳」によると、63名の番衆を2組に分け、交代で番を行い、番衆の武具(弓・鉄砲・槍)と氏名が記されており、番頭として富沢豊前守、狩野志摩介、同右馬助、折田軍兵衛があげられている。
翌天正十七年(1589年)十二月北条氏邦が白井城より攻め寄せたが、番頭以下の将兵が固く守り、これを退けた。『中之条町教育委員会説明板』。