衣笠城 (きぬがさじょう) (市の史跡)
最寄地 神奈川県横須賀市衣笠町29‐1 2014.2.4
衣笠城 (きぬがさじょう) (市の史跡)
最寄地 神奈川県横須賀市衣笠町29‐1 2014.2.4
登城ルート(緑線は車道)
大善寺脇登り口・説明板
城跡碑
2郭・義明公八百年記念碑
主郭跡
衣笠城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 「大善寺」(表記番地)の駐車場[マップコード306 544 871*86] (地図)より石段を北に登ると城跡の看板が建てられている。
城跡の東に石垣の残る虎口や祠があり、西に「三浦大介義明公八百年記念碑」の石碑が建つ二の曲輪があり、その西に比高約35mの主曲輪があり石碑が建てられている。
その西の最高所に物見岩と呼ばれる大岩があり、その西は急峻な崖となっている。土塁や空堀の跡がわずかに残る。
昭和四十一年(1966年)6月15日、横須賀市の史跡に指定された。
【歴史】 永承六年(1051年)から康平五年(1062年)に起きた前九年の役での戦功により源頼義から相模国三浦に領地を与えられた、村岡(三浦)平太夫為通が、康平五年(1062年)、衣笠山に築城した。
以後三浦為通・為継・義継・義明の本拠地となり、三浦氏が勢力拡大するにあたって増築された。
源頼朝が伊豆で旗揚げすると三浦氏4代義明は頼朝を支援したが、頼朝は治承四年(1180年)石橋山の戦いで敗れ房総半島へ逃げ延びた(鋸南町竜島の海岸に頼朝上陸地の碑がある)。
頼朝軍と合流できずに引き返した三浦一族は平家方の畠山重忠軍と衣笠城合戦に及び、衣笠城は落城、城主義明は討ち死にし三浦一族は房総半島に逃れた。
その後鎌倉幕府が成立すると、衣笠城は再び三浦氏の本拠となるが、鎌倉時代の宝治元年(1247年)に起きた宝治合戦で三浦党が没落すると廃城となった。