山口城 (やまぐちじょう) (県の史跡)
所在地 埼玉県所沢市山口 1517 2013.9.29 2014.3.21
山口城 (やまぐちじょう) (県の史跡)
所在地 埼玉県所沢市山口 1517 2013.9.29 2014.3.21
山口城址碑・土塁
土塁
瑞岩寺の山口高実他墓塔
山口城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道55号線「山口城趾前」交差点と西武狭山線の間にある[マップコード5 367 857*31] 。電車の場合は西武狭山線「下山口」駅から県道を西に約500m歩く。 交差点南東角に城址碑と説明板が建てられている。
発掘調査後、ショッピングセンター「サンキ所沢店」 の敷地となっているが、踏切近辺に土塁が保存されている。土塁を囲むように堀もあった。
昭和三十七年(1962年)10月1日、埼玉県の史跡に指定された。
県道55線を東に約1.6㎞行った瑞岩寺(所沢市山口400)本堂西側に屋根をかけられた山口氏の墓塔(地図)が三基あり、向かって左側は山口高実の墓塔である。
【歴史】 平安時代末期から鎌倉室町時代にこの地を拠点とした武蔵七党の一つ村山党の山口家継により築かれた。
南北朝時代の応安元年(1368年)新田義宗、脇屋義治の挙兵に呼応した武蔵平一揆に際し、山口高清は一揆の中心・河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城した。
永徳三年(1383年)、南朝の力を得た高清の子山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。
高治の子山口高忠は上杉氏家臣で武蔵国守護代の大石氏に従い、山口城の大改修を行ったが、もともと館であったため別個に勝楽寺村に根古屋城を築き、山口城の城郭としての機能を根古屋城に移した。
その後山口氏は上杉氏が没落すると、後北条氏に仕え武蔵国入間郡山口(所沢市山口)に40貫を知行していたが、天正十八年(1590年)、豊富秀吉の小田原征伐で敗れ、廃城になった。以後は再度城郭として用いられることはなく、江戸期には敷地の大半は開拓されて畑地や住居、溜池などに転用された。
明治時代以後は更に道路や鉄道が建設され、開発によってその大半が失われている。