小手森城 (おでもりじょう)
所在地 福島県二本松市針道愛宕森 2014.4.14 2020.4.12
小手森城 (おでもりじょう)
所在地 福島県二本松市針道愛宕森 2014.4.14 2020.4.12
登城ルート
標柱・神社登り口
南西の帯郭
愛宕神社・説明板
北東切岸
北東郭の石塔
小手森城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 城跡南側の市道北にある「小手森城城址」標識の登り口がある[マップコード129 625 336*71](地図)。
愛宕神社の鳥居をくぐり途中の農道を越えて250mほど登ると、愛宕神社の祀られている標高264m比高約100mの頂上に着く。頂上の小手森城跡には、石垣や曲輪の遺構が残存し北東の郭に「秋葉塔」(天明二年)などの石塔がある。
【歴史】 小手森城のある中通り北部の阿武隈川東部一体は塩松とよばれ、十六世紀後半は小浜城主・大内氏の支配地域であり、小手森城は小浜城の支城となっており、菊池氏が城を守っていた。
天正十三年(1585五年)、出羽国米沢城主・伊達政宗は小浜城主・大内定綱攻撃のため、河股(現・伊達郡川俣町)方面から塩松に攻め入り、小手森城を囲んだ。
八月二十七日、政宗は城へ総攻撃をかけ、自ら最前線に立ち、鉄砲八千丁を撃たせるなどの激しい攻撃でその日のうちに落城させた。
このとき、政宗は城主・菊地顕綱をはじめとする将兵だけでなく、城内にいた女や子供もまでも殺害したといわれている。同日付で伯父の山形城主・最上義光へ送った書状には、城主・菊池顕綱や大内定綱の親類など五百人を討ち取ったほか、城内にいたものは人のみならず、犬に至るまで全て撫で斬りにし、その数は総勢千人に及んだと記載されている。
その後、小浜城も落城し、塩松は政宗の所領となったが、天正十六年(1588年)、政宗の命で塩松を守っていた石川弾正が相馬義胤の誘いに応じて政宗に反旗を翻したため、閏五月十六日に政宗は弾正の籠もる小手森城を攻撃し、約五百人の将兵を討ち取り、落城させた。
これ以後、小手森城が史料に表れることはなく、このとき廃城になったと思われる。