菅谷北城 (すがやきたじょう)
所在地 埼玉県上尾市菅谷2 2015.12.23
菅谷北城 (すがやきたじょう)
所在地 埼玉県上尾市菅谷2 2015.12.23
東側道路横
交差点南西土塁
民家横・空堀
空堀
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 標識等は無いが、県道87号線を底辺にした東西約270m南北約260mの道路に囲まれた梯形の広い区画で、中央に十字に道路が設けられている。
珈琲店案内看板がある十字路(地図)が城跡中心である。民家、建設会社等の敷地の間に、遺構が点在している。
県道87号線より北に約70m行った民家の北より竹林に入る[マップコード14 296 719*38]。民家裏の空堀を10m程南下し、鬱蒼とした竹林の中に折れ曲がった空堀がある(地図)。空堀は竹落葉でかなり埋まっており、その左に土塁が残る。
また、北に200mほど行った交差点の南西、竹林の中に土塁が残っている(地図)。
【発掘調査】 平成八年に上尾市教育委員会による発掘調査が行われた。北側、西側、南側にコの字形に薬研堀があったと推察される。
布目瓦、14世紀中期に焼かれた素焼きの灯明皿をはじめ、焙烙、土鍋等と共に、江戸時代の陶磁器片が多数出土した。
【歴史】 『埼玉縣史』では春日八郎行光の築城としている。観応元年(1350年)に起きた「観応の擾乱」と呼ばれる足利氏の内紛で、尊氏側について戦功のあった春日八郎行光に、菅谷村を与えられた。
6代景定の時代には、景定が築城した中丸城と共に太田氏岩槻城の支城的役割を持っていたと思われる。その後、北条氏の支配を経て廃城となった。
幕藩体制になり、徳川家旗本に列した6代景定以後この地は旗本知行地とした与えられた。廃城となっていた菅谷北城は春日氏館となった。
世代当主の江戸詰めによって、当主不在となるが、春日氏の管理下で近世まで館として存在した可能性がある。『埼玉の城址めぐり』(西野博道編著18ページ)より。