江田館 (えだやかた)
最寄地 群馬県太田市新田上江田町925 2024.10.11
江田館 (えだやかた)
最寄地 群馬県太田市新田上江田町925 2024.10.11
南側土橋・空堀・標柱
本丸・土塁(中央部)
東側の折れの土塁・空堀
北側土塁・空堀
石宮(義貞様)
二の丸から見た西側の折れの土塁・空堀
江田館跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【感想】 本丸跡は東西約80m南北約90mの方形で土塁と空堀を一周にわたって巡らせ、南側に土橋を設け、特に東西の土塁は折れのある構造となっている。本丸の西から南に二の丸がⅬ字形に付加されている。
太田市の城跡の多くが遺構の一部しか見られないが、ここはほぼ全体が保存され、堀など整備され見応えがあった。
【案内】 県道292号線に面した表記番地西に駐車場があり、説明板と標柱が建てられている[マップコード34 454 283*15]。
土塁北の中央に義貞(ぎてい)様と云われる石宮があり、江田氏の子孫が義貞、行義を合祀して氏神としたものといわれる。明治六年(1873年)新田氏末裔たちが金山山頂に新田神社として遷したという。
平成12年(2000年)11月1日、新田荘遺跡の一つとして国の史跡に指定された。
【歴史】 承元年間(1210年頃)江田顕有により築かれ、江田氏の居城となった。
南北朝時代には新田義季の4世の孫・江田行義が居住した。行義は新田義貞の鎌倉北条氏討伐に参加し、極楽寺坂口の大将として軍功を立てた。西国を転戦後、備後国で農業を営み、以後足利市の目を忍び、九代にわたって「守下」に改めていたが、10代目の大膳が文禄はじめ(1593年頃)祖先のこの地に移転したと云われる。
戦国時代には金山城の出城として反町館と共に改修された。由良氏の四天王の一人矢内四郎左衛門の居城となった。
天正年間(1573~92年)小田原北条氏により奪われ、金山城攻略の出城となった。
天正十八年(1590年)北条氏滅亡と共に廃城となった。