砂久保陣場 (すなくぼじんば)
所在地 埼玉県川越市砂久保65 2015.2.19
砂久保陣場 (すなくぼじんば)
所在地 埼玉県川越市砂久保65 2015.2.19
説明板
稲荷大明神・説明板
稲荷大明神
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 「砂久保集会所・社務所」(表記番地)が建てられ、北に天保十四年(1843年)建立の稲荷大明神拝殿がある。遺構はないが、説明板が建てられている[マップコード5 763 709*36] (地図)。
昭和三十三年(1958年)3月6日、川越市の史跡となった。
【歴史】 扇谷上杉朝定は山内上杉憲政と手を結び、北条氏康が駿河の今川氏との対戦で出陣中の隙を衝いて、天文十四年(1545年)九月二十六日、河越城(川越城)に向け侵攻し、包囲した。
北条方は河越城で、北条綱成(氏康の義弟)と同宗哲(氏康の叔父)が守将を務めた。
両上杉氏は、戦いを正当化するために、古河公方・足利晴氏(妻は氏康の妹)に出陣を懇願し、十月二十七日に上杉軍に迎えた。この状況に氏康は、河越城の死守を優先し、駿河からの全面撤退と引き換えに今川氏との和睦を成立させ、十一月初め頃に小田原に帰陣し、河越城は籠城のまま年を越した。
天文十五年(1546年)に入ると北条氏康は、足利晴氏に城兵3千人の助命嘆願をするも拒否された。しかし、三月初めに扇谷上杉氏の宿老で岩付城の太田全鑑を離反させ味方に引き入れたことで、氏康は四月十七日に出陣に踏み切り、砂久保(砂窪)に着陣した。
そこで足利晴氏に再度城兵の助命を懇願したが、取次を拒否され、四月二十日、上杉憲政が氏康陣所の砂久保に攻めかかった。氏康は劣勢を跳ね除け、これを迎撃すると共に、城内から綱成らも闇夜に乗じて討って出て両方面で勝利した(河越夜戦)。
その結果、上杉氏は平井城に、足利晴氏は古河に敗走し、扇谷上杉氏は当主・朝定とその重臣難波田善銀が戦死し、滅びた。『川越市教育委員会説明板』より。