剣吉館 (けんよしたて)
最寄地 青森県三戸郡南部町剣吉大館10‐1 2014.8.13
剣吉館 (けんよしたて)
最寄地 青森県三戸郡南部町剣吉大館10‐1 2014.8.13
登り口
二段の曲輪跡
上段の曲輪跡
西側の堀切
剣吉館跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道104号線の「南部町剣吉」歩道橋のある交差点より県道33号線に入り、すぐ右折「剣吉城跡」の標識より細い道を100m行き右折すると、剣吉小学校(表記番地)がある[マップコード412 716 188*40]。
校舎裏へ行くと駐車場があり、「剣吉城址公園」の入口があり登ると、東西2段になり、 四阿、土俵のある公園となっている。
西側に北信愛「覚」の碑があり、土塁とその西に堀切がある。
馬淵川東側の丘陵に東西70m南北100mの規模で、館は大館と小古館の二つに分かれている。
現在跡地は、大館は剣吉小学校校敷地、小古館は剣吉城址公園となっている。
【歴史】 築城時期は不明。戦国時代、北信愛(きたのぶちか)尾張守左衛門尉が築城した。
元亀二年(1571年)から始まった屋裏の変で、信愛は南部信直を擁護し南部晴政と争った。
晴政の子晴継の死去後に、南部信直を26代当主に付かせた。このため信直の家老として重用され、外交・軍事で活躍した。
天正十九年(1591年)に九戸政実の乱が起こると、九戸方につき南部氏によって滅亡した一戸氏旧領を与えられ、九戸政実への押さえとなった。
長男・彦助愛一(定愛)は剣吉城から移って寺田館を領し、次男・主馬尉秀愛(直愛)は一戸城を領した。秀愛は九戸方の一戸猛攻に耐え、その功で乱後に花巻城8千石を得た。
天正二十年(1592年)「諸城破却書上」には「糠部郡之内 剣吉 平城 南部 左衛門尉 持分」とあり、破却を免れた。
秀愛は慶長三年(1598年)に死去、花巻城代は父・信愛が継いだ。ただし秀愛は一戸城の戦いで戦死したとも伝わるため、『一戸町誌 上』では秀愛の花巻領有を疑問視する。
慶長十八年(1613年)、信愛が没すると花巻城代たる北氏は断絶した。三戸城の北に屋敷があったので「北殿」と呼ばれた。