相馬中村城 (そうまなかむらじょう) (中村城・馬陵城)
最寄地 福島県相馬市中村北町91−1 2014.4.15
相馬中村城 (そうまなかむらじょう) (中村城・馬陵城)
最寄地 福島県相馬市中村北町91−1 2014.4.15
外堀
大手一ノ門
中ノ門跡
南二の丸
本丸石垣・内堀・橋
本丸・天守閣跡
相馬神社
中村相馬神社
相馬中村城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道115線の「中村第一小学校」の北、堀を渡ると東三の丸の「ヤマハ音楽教室」(表記番地)の前に駐車場がある[マップコード208 770 254*21]。
「馬陵公園」となっており、石垣・土塁、堀で囲まれた本丸跡に相馬神社が建てられている。藤棚の在るところが本丸天守閣跡であり、訪れた時、城跡に桜が咲き誇っていた。
本丸の周囲に「東二の丸」(グランド)、「北二の丸」、「西二の丸」、二の門跡の石塁の残る「南二の丸」(現相馬高校グランド)が配され、「西三の丸」(南に中村相馬神社)、「東三の丸」(駐車場・大手一ノ門)があり、「西二の丸」北側の蓮池の北に岡田氏塁跡や北三の丸があった。 大手一の門は慶安元年(1648年)の建築といわれる。
【歴史】 中村城の歴史は古く、平安時代初期の延暦年間(800年頃)に奥州鎮撫のため坂上田村麻呂が最初に築いたとされる。
南北朝時代の延元二年(1337年)には、周辺を配下とした中村朝高がこの地に「中村館」を構えた。以後、戦国時代初期まで中村氏の支配が続いた。
中村氏に代わって相馬盛胤が浜通り夜ノ森(冨岡町)以北に権勢を振るい、永禄六年(1563年)に次男の相馬隆胤が入城した。
この時期は相馬氏と伊達氏の抗争が激化した戦国時代真っ只中であり、相馬氏は本城である小高城に加えて、この中村城に城代を置いて伊達氏と対峙していた。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いから11年後の慶長十六年(1611年)、盛胤の孫である利胤は、本城を小高城から中村城に完全移転し、中村城は相馬中村藩6万石の中心となった。
同年、利胤はただちに近世城郭への改修を開始し、梯郭式の城郭が完成、本丸四櫓と称される櫓門形式の前門及び搦手門・北隅櫓・天守が設けられた。
しかし、寛文十年(1670年)には落雷により天守を焼失したが、時の四代藩主貞胤は藩政を優先し天守再建は行われなかった。以後、これに倣い歴代藩主は天守を再建しなかった。
明治元年(1868年)の戊辰戦争では、中村城は明治政府軍の攻撃を受けて陥落し、陥落後の中村城は明治政府軍の支配拠点となった。
そして、明治四年(1871年)の廃藩置県により廃城となった。
明治十三年(1878年)に相馬氏の祖・相馬師常を祀って相馬神社が本丸跡中央に建立された。