千徳城 (せんとくじょう)
所在地 岩手県宮古市千徳町2‐25 2014.8.15 2017.10.26
千徳城 (せんとくじょう)
所在地 岩手県宮古市千徳町2‐25 2014.8.15 2017.10.26
登城ルート
千徳八幡宮入口
千徳八幡宮
2段の郭
2段の大手先の堀切
主郭東の帯郭
主郭・北の帯郭
主郭
千徳城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【案内・感想】 県道40号線の山田線を挟んだ北の道路(宮古街道) に「千徳八幡宮」の標識があり[マップコード286 171 817*17](地図) 、路地の鳥居を北に登ると千徳八幡宮(表記番地)がある。拝殿を囲んで三方に土塁が残っている。
神社の下より北に尾根をゆくと空堀があり曲輪がある。更に北に行くと2段になった大手があり、堀切を経て登ってゆく。
東側から北側にかけて帯曲輪があり、一段高く草が茂っている主郭がある(標高73.3m)。
【歴史】 千徳城は、陸奥国閉伊郡千徳村に所在した。十四世紀後半に遺領争いをきっかけに分裂した閉伊氏の内、閉伊川より北の地を領有した河北閉伊氏によって築城されたとする説が一般的である。
河北閉伊氏は天文年間に南部氏によって滅ぼされ、その後に南部氏の目代として一戸系千徳氏が入り、城を拡張したと考えられている。
千徳氏は城主であった千徳政氏の代に浅瀬石城に移ったため、千徳城は一族の一戸孫三郎が守った。
天正二十年(1592年)、城主一戸(千徳氏)孫三郎が文禄の役に従い九州名護屋へ出陣の留守中、南部氏によって千徳城は田鎖城とともに破却された。
「諸城破却令」書上には「千徳 山城破 一戸孫三郎 持分 唐之供 留守甲斐守」とある。
それ以降、千徳氏の名は史上から消息不明となった。