明徳寺城 (みょうとくじじょう) (町の史跡)
最寄地 群馬県利根郡みなかみ町後閑1739 2019.2.16
明徳寺城 (みょうとくじじょう) (町の史跡)
最寄地 群馬県利根郡みなかみ町後閑1739 2019.2.16
登城ルート
入口・説明板
城址標柱
空堀(右側)
虎口・土塁
主郭(奥に土塁)
水子地蔵尊の郭
明徳寺城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 みなかみ町後閑の関越自動車道西にある舌状台地に築かれた崖端城となっている。
あまり期待しないで行ってみたが、意外に2重の土塁と空堀がよく残っている。主郭はやや傾斜した平坦地で、南西に段郭が連なっている。
【案内】 関越自動車道西にある「つきよの温泉」(表記番地)の駐車場が利用できる[マップコード183 646 723*24]。
その南に虎口があり、説明板、城址標柱が建てられている。土塁が2重になっており、空堀が残っている。
昭和四十五年(1970年)4月1日、月夜野町(現みなかみ町)の史跡に指定された。
【歴史】 南北朝時代、会津の葦名氏の来攻に備え、荘田城の沼田氏が築いた天神山砦を改築したと考えられ、明徳年間(1390~94年)僧の松庵が城郭の下に明徳寺を開山したことから、現在の名称が一般的になっている。
永禄二年(1559年) 長尾景虎(上杉謙信)が越山し沼田城を落とした後、上杉氏の時代を経て、天正七年(1579年)北条氏の領有する所となった。
このころ、東上州進出を窺っていた信州の真田昌幸は岩櫃城を拠点に名胡桃城、小川城を攻略し、利根川西岸を固めた。
沼田城代藤田能登守は明徳寺城を構築、沢浦隼人・渡辺左近・西山市之丞・師大助等を置き、名胡桃城、小川城に対峙した。
翌、天正八年(1580年)八月一日の夜半昌幸は明徳寺城を急襲した。城代矢部豊後守は左近、大助等将兵200余騎で奮戦するが、遂に敗れ沼田に退去した。昌幸は弥津志摩守、出浦上総守等を明徳寺城に置き、城を補強した。
その後天正十七年(1579年)豊臣秀吉の盟約により、北条氏は名胡桃城を除く利根、沼田の地を安堵された。
しかし、北条側の沼田城代猪股憲直が名胡桃城を不法攻略したことを機に、翌年豊臣秀吉により小田原征伐が開始され、北条氏は滅亡し、再び利根、沼田の地は真田氏の所領となり、明徳寺城は廃城となった。