岩崎城 (いわさきじょう)
最寄地 秋田県湯沢市岩崎岩崎75 2016.6.8
岩崎城 (いわさきじょう)
最寄地 秋田県湯沢市岩崎岩崎75 2016.6.8
千年公園入口
八幡神社
三の丸
玉子井戸
二の丸・櫓台
本丸・標柱
本丸
岩崎城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 十文字バイパスより東に行った八幡神社(表記番地)の東に「千年公園」駐車場が用意されている[マップコード212 736 237*72]。皆瀬川南岸の丘陵に位置する。
階段を登ると広大な三の丸があり、北に「玉子井戸」がある。北に登ると、左に二の丸があり、東端に櫓台、西端に高辻神社が建てられ、下ってゆくと八幡神社がある。
右に登ると、本丸で「菅江真澄の道」の城跡標柱があり、中央に、城跡の保存に尽力された「伊東仁右衛門顕彰碑」が建てられている。南に一段、北に3段の郭を備えている。
【歴史】 建長・文永年間(1249~75年)稲庭城主・小野寺経道が一族の藤原河内守を岩崎の地に封じ、河内守が岩崎城を築き、岩崎氏を称したと云われている。
天正十八年(1590年)豊臣秀吉の奥州仕置で雄勝郡は最上氏の領土とされたが、横手城主小野寺義道はこれを認めずに雄勝郡の支配を継続した。
これを聞いた山形城主最上義光は、文禄四年(1595年)楯岡城主楯岡満茂が率いる軍勢を湯沢城に差し向けた。
湯沢城が落城して次の目標が岩崎城だと推測した岩崎義高は小野寺義道に援軍を要請したが、同日に今泉城、角間城、鍋倉城(横手市)、植田城、新田目城が最上軍の攻撃にあったため岩崎城の方には手が回らず、ほとんど援軍が来なかった。
その後、前森城主原田大膳が岩崎城に夜襲をかけ、城主の岩崎義高は討死して落城した。その後、原田大膳が城主となった。以後、岩崎城は最上氏の城になった。
慶長七年(1602年)佐竹義宣の秋田移封後は佐竹氏の城となった。
元和元年(1615年)一国一城令により廃城となった。
天明五年(1785年)菅江真澄が旅路の途中で、この城跡に立ち寄ったという。
慶応四年(1868年)佐竹義諶(よしつま)は拠点を椿台城から移して、岩崎城址南麓に岩崎藩陣屋を構えて岩崎藩を置いた。