里見城 (さとみじょう)
所在地 群馬県高崎市下里見町1517 2015.9.22 2015.9.27
里見城 (さとみじょう)
所在地 群馬県高崎市下里見町1517 2015.9.22 2015.9.27
城跡入口
南側の空堀
虎口
本郭跡・碑・説明板
土塁
里見城本郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道406号線「下里見」交差点のすぐ西より南西に「城山稲荷神社」の朱鳥居を潜り、200mほど行くと案内標識がある(地図)[マップコード94 365 638*57]。
入口付近に駐車し、西に歩いてゆくと、間もなく虎口となり、南側に墓地となっている空堀がある。
虎口を入ると東西約100m南北約70mの本郭跡があり、碑、説明板が建てられている。西側隅に民家(表記番地)が建てられている。
北は里見川によって形成された崖で守られ、東南西の三方は高さ2.5mほどの土塁をめぐらせて、南西側に腰郭がある。草木が多いのが難であった。
郷見神社(高崎市下里見町1443)の境内裏に里見八幡宮が祀られ、境内に説明板(地図)が建てられている。また里見氏の菩提寺光明寺境内の冠木門の横に「智泉院旧跡」里と共に見氏供養碑と説明板が建てられ、宝篋印塔墓などがある。説明板には、寛保二年(1742年)八月一日の烏川の氾濫大水害で地頭里見氏十代の墓石が流出したことが記されている。
【歴史】 新田義重の子義俊が新田氏の所領である里見郷に居を構え築城したと伝えられる。
義重は所領の里見郷を義俊に譲り、義俊は里見氏を名乗り、この城を新田氏所領の西の守りの拠点とした。
里見氏十代家基が嘉吉元年(1441年)結城合戦で戦死し、その子義実が房総に転出するまで、290年余里見氏はこの城に依拠した。『里見小五郎会説明板』。
その後、永禄年間(1558~70年)初め、当地に残留した里見氏一族で長野業政の家臣となっていた里見河内が一旦廃城になっていた里見城に入った。
永禄九年(1566年)武田信玄に攻められ箕輪城と共に落城した。