中山家範館 (なかやまいえのりやかた)
最寄地 埼玉県飯能市中山520 2015.1.31
中山家範館 (なかやまいえのりやかた)
最寄地 埼玉県飯能市中山520 2015.1.31
館跡碑・説明板
館の北西空堀
智観寺山門
中山信吉の墓
能仁寺にある 中山家範の墓(後ろは家勝の墓)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道299号線「中山陸橋(西)」交差点を北に行き、「中山」交差点より西に行くと「智観寺」(表記番地)入口向かいに駐車場がある[マップコード91 113 083*87] 。
その北東約120m、東の次の通りに「中山家範館跡」の石碑、説明板が建てられ、館の北西に在った空堀の一部がその横に残っている(地図)。
内堀は東西約60m、南北約90mで、外郭は東西約110m、南北約130mと推定される。遺構は宅地化が進み空堀の一部を残すのみとなっている。
智観寺に加治家季夫妻の供養のために建立されたと推定される板碑(仁治二・三年―1241.1242年)がある。
家範の次男で中山氏初代の中山信吉の墓(宝篋印塔)ほか中山氏歴代(2代4代を除く)の墓がある。また智観寺山門は、慶応四年(1868年)五月に起きた飯能戦争被弾の門がある。
また能仁寺(飯能市飯能1329)に中山家勝・家範・照守三代の墓がある。
【歴史】 中山氏は武蔵七党(横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党)の一つ丹党の出で、鎌倉時代の加治家季の頃に中山に居住した。
家範の父勘解由家勝は、中山氏を名乗り、天文十五年(1546年)この館から出陣して河越夜戦に参加した。
中山家範は後北条氏に従い、天正十八年(1590年)豊富秀吉の小田原征伐の際、八王子城の将として詰め、六月二十三日、前田利家・上杉景勝の軍に攻められて敗れ、八王子城で自害した(享年43)。
家範の長男照守は徳川家の旗本となり、家範の次男で中山家初代の中山信吉は徳川家康に取り立てられ、側近として活躍した。また水戸家初代藩主徳川頼房の傅育を命じられ、水戸藩の付家老となった。
正保三年(1646年)、水戸藩の付家老・二代中山信政(信吉の長男)に常陸国松岡城が与えられた。
中山氏は水戸藩の北の要地である多賀郡松岡周辺(現高萩市)、久慈郡太田村周辺(現常陸太田市)に2万5千石程の領地を持ち、代々徳川水戸藩の付家老として活躍した。『智観寺説明板』より。