西馬音内城 (にしもないじょう) (県の史跡)
最寄地 秋田県雄勝郡羽後町西馬音内堀回浦田山29 2016.8.6
西馬音内城 (にしもないじょう) (県の史跡)
最寄地 秋田県雄勝郡羽後町西馬音内堀回浦田山29 2016.8.6
登城ルート
大手門跡碑・説明板
登り口・標柱
堀切
二の丸空堀
二の丸跡
本丸虎口
本丸跡
西馬音内城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【案内・感想】 羽後町立元西小学校(表記番地)の北の道路横に城跡碑、説明板が建てられている。
「元西郵便局」(羽後町南元西1−3)より入り[マップコード212 660 689*35]、立体交差の道路南の小学校(廃校となっている)右側の道路を登ると広いグランドに駐車できる。
登り口(地図)先に標柱が建てられ、少し登ると十三森塚がある。一旦下って200mほど行くと堀切があり再び登ると、社の屋根の残る(井戸かも)の台地があり、隅櫓台跡がある。
二の丸の西側の平坦な道をゆくと空堀があり、右に折れて登ると二の丸がある。本丸虎口を登ると広い本丸跡があり、井戸跡が残っている。
昭和六十三年(1988年)3月15日、秋田県の史跡に指定された。
【歴史】 文治五年(1189年)源頼朝の平泉藤原泰衡征討に従軍した小野寺道綱と重道の親子が、その軍功によって雄勝一円を与えられ、東端に稲庭城を築城した。
建治三年(1277年)小野寺経道の次男・道直が西馬音内城を築いた。
その後累代を経て城主茂道の時代、太閤検地によって所領の三分の一を召し上げられて最上氏に与えられた後、有屋峠の合戦、小田原、九戸、名古屋への出陣など、小野寺氏にとって苦難の時代を迎えた。
慶長五年(1600年)では当初東軍に与するつもりで1800の軍勢を率いて出陣したが、山形に着いたとき上杉景勝に説き伏せられ、石田三成方に加担した。
西軍の敗北で領知没収、翌慶長六年(1601年)最上氏の大軍に攻められ落城した。城主茂道は嫡子八之丞と随身を伴い七曲峠を越えて庄内に逃れた。