庁鼻和城 (こばなわじょう)
所在地 埼玉県深谷市国済寺521-1 2015.2.4
庁鼻和城 (こばなわじょう)
所在地 埼玉県深谷市国済寺521-1 2015.2.4
鼻和城舊里之碑
標識・説明板
上杉憲英の墓
土塁
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 「国済寺」(表記番地)の敷地となっている。館は一辺約170mの正方形で、東西約700m南北約500mの外郭を含めると28haあった。
入口に「庁鼻和城舊里之碑」の石碑が建てられ、本堂裏に当時の築山と土塁が残っており(地図)、説明板が建てられている。。本堂裏に上杉憲英の墓がある。
【歴史】 関東管領上杉憲顕(のりあき)は十三世紀末、新田氏を抑えるために、この地庁鼻和に六男上杉蔵人憲英(のりふさ)をつかわし、館を築かせた。憲英は後、奥州管領に任じられた。
康応二年(1390年)憲英は高僧峻翁令山禅師を招いて、館内に国済寺を開いた。
その後憲光、憲光の長男・憲長と続き、憲光の次男・四代憲信(のりのぶ)は、入道の後、庁鼻和性順と号し、居住した。憲信は永享の乱(1438~9年)では管領上杉憲実のもとで上杉持朝と共に活躍した。
享徳四年(1455年)享徳の乱では勢力拡大を図る足利成氏が、山内・扇谷両上杉氏を圧倒し憲信はは騎西城に退いた。
康正元年(1455年)十二月、足利成氏は騎西城を攻め、落城し憲信の消息は絶え、翌年正月病死したと云われている。
憲信の長男・房憲は康正二年(1456年)深谷城を築いた。その後、憲清、憲賢、憲盛、氏憲と五代に亘り深谷城に居城し、庁鼻和城は上杉氏の菩提寺として続き、併せて支城の役割を持っていたと考えられる。
天正十八年(1590年)徳川家康から寺領三十石の朱印状を下付された。令山禅師と法灯国師の頂相(ちんそう)、黒門、山門、上杉氏歴代の墓などが文化財に指定されている。