雫石城 (しずくいしじょう) (滴石城・雫石御所)
所在地 岩手県岩手郡雫石町下町東 2017.4.24
雫石城 (しずくいしじょう) (滴石城・雫石御所)
所在地 岩手県岩手郡雫石町下町東 2017.4.24
登城ルート
八幡宮鳥居
本丸東側空堀
本丸東側土塁
城跡標柱・八幡宮
本丸二の丸間の空堀
雫石商工会館・代官屋敷跡
雫石城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 雫石川と北側を流れる支流に挟まれた細長い台地にあり、八幡宮に城址碑、説明板が建てられている。
本丸一帯に遺構が残っており、東側に土塁、空堀があり、古舘に続いている。また本丸、二の丸の間に空堀が残っている(地図)。
【案内】 県道212号線の北、八幡神社を含む一帯が本丸である[マップコード435 088 246*11]。
西に空堀を挟んで二の丸、三の丸、家臣屋敷と並んでいる。本丸以外は住宅地となっている。
北 西方向約800mの県道212号線「中町」交差点角に雫石商工会館が代官屋敷跡に建てられている。(地図)。
【歴史】 城主戸沢氏は本姓平氏であり、寿永年間(1182~84年)に大和国から下向し、滴石庄の戸沢邑に居を構えたことから戸沢氏または滴石氏と称していたと伝える。
南北朝時代、戸沢氏(滴石氏)により南朝方の拠点として築かれた。
北畠顕信が興国二年(1341年)から、多賀国府奪回に成功した正平六年(1351年)秋まで在城した。
それ以後の滴石氏や戸沢氏の事績は不明である。戸沢氏は応永三十年(1423年)に出羽国角館に移ったという。
天文年間(1532~55年)の雫石盆地には、滴石城主手束左衛門尉、長山の長山某、戸沢城主戸沢政安がおり、相互に確執を繰り返していた。
天文九年(1540年)南部晴政は雫石に出兵した。滴石城は焼け落ち、戸沢館の戸沢政安は自ら館に火を放ち出羽国最上新庄へ立ち退くと伝える。
その後斯波氏は、滴石城に斯波詮貞(あきさだ)を置くことに成功した。詮貞は雫石御所と呼ばれ、詮貴・久詮と3代にわたり、天正十四年(1586年)まで雫石を支配した。
滴石が雫石と改められたのは、斯波氏が当地を領有してからのことと伝えられる。雫石御所の居城は、客分として迎えられた遠野の綾織越前守広信が新築したものであり、雫石川を南にして本丸・二の丸・三の丸が東西に並んでいる。 雫石御所は元亀三年(1572年)と天正十八年(1590年)に南部氏の攻撃を受けたが、これを撃退している。
南部信直は天正十二年(1584年)から天正十四年(1586年)まで3度にわたって雫石に出陣し、九月二十九日、雫石城を包囲して討ち滅ぼし、雫石地方を手中におさめた。 雫石御所の支配はここに終わり、本家の高水寺斯波氏も2年後に滅亡した。
天正二十年(1592年))の「諸城破却書上」には「滴石 平城 破 信直抱 代官 八日町太郎兵衛」とあり、破却された。
天正二十年(1592年)秋田街道に沿う雫石郷十ヶ村支配の要として現商工会館敷地に代官所が設置され、明治二年(1869年)まで277年間にわたって統治の役割を果たした。