多賀谷城 (たがやじょう) (下妻城) (市の史跡)
所在地 茨城県下妻市本城町2‐50 2013.11.2 2018.2.21 2018.2.26
多賀谷城 (たがやじょう) (下妻城) (市の史跡)
所在地 茨城県下妻市本城町2‐50 2013.11.2 2018.2.21 2018.2.26
多賀谷城跡公園
説明板
多賀谷城跡公園・本丸跡
多賀谷氏遺跡碑
美女塚
多賀谷城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 宅地より僅かに微高地にあり、整地された櫓台があり都市公園となっている。遺構は見当たらない。
【案内】 関東鉄道常総線「下妻駅」の北東約300m、下妻市役所の県道357号線を挟んだ西側の「多賀谷城跡公園」(表記番地)となっている。公園北側に駐車場が用意されている[マップコード123 341 698*16]。
公園の北側に、本丸跡標柱と説明板、上段に「多賀谷氏遺跡碑」と刻まれた石碑が建てられている。
三の丸にあった美女塚は昭和51年、法泉寺(下妻市本宿町2-43)山門先の墓地の一角に移されている。
昭和五十二年(1977年)3月22日、下妻市の史跡に指定された。
【歴史】 寛正二年(1461年)初代多賀谷氏家により築城された。後北条氏の再三の来襲を撃退し、7代147年間下妻城主として常総地方に栄えた。
氏家と2代高経に次いで下妻城主となった3代基泰(家稙、祥潜)は、文明十年(1478年)に足利成氏から「忠を尽くせ」との命を受け、文明十四年(1482年)より行田宮内と常楽寺某を始めとして立て続けに下妻荘近在の領主を降伏させ、支配領域を拡大した
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いに際し、7代重経は佐竹氏と同じく家康の再三の出陣要請をためらった。
このため、翌年石田三成に与したとの理由で追放、城は破却となった。城主追放の時、行く末を案じた奥方、姫女中らは自害し、その亡骸を埋葬したのが三の丸の美女塚である(道路工事で法泉寺に改葬されている)。封建の世の悲惨な出来事であった。
下妻は一時天領となり、徳川家康の11男・鶴千代(当時3歳:後の徳川頼房)が慶長十一年九月(1606年10月)に5万石で入封した。
慶長十四年(1609年)初代水戸藩主となり水戸城へ移った。