小沢城 (おざわじょう) (天神山城)
所在地 神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1ー4 2014.1.6
小沢城 (おざわじょう) (天神山城)
所在地 神奈川県川崎市多摩区菅仙谷1ー4 2014.1.6
登城ルート
登り口
堀切
馬場跡・城跡碑
城跡碑
空堀
中心曲輪(主郭)
小沢城跡 馬場跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高30m】
【案内・感想】 「グリーンハイツ原」(川崎市多摩区菅仙谷1丁目5−21)の西に登り口がある[マップコード2 767 208*68](地図)。細い道で、行き止まりの道があり、駐車スペースは少ない。多摩川の支流三沢川の南岸の比高約30mの独立丘陵にある。
西から馬場跡、空堀、物見櫓跡、井戸跡、「中心の曲輪」(主郭)と並んで配置されている。
馬場跡には石碑、説明看板が建てられている。富士塚に「富士山三十三度大願成就」記念碑が建てられている。
西には、読売ジャイアンツ球場がある。
【歴史】 平安時代末期、稲毛三郎重成によって築かれた。
建久六年(1195年)妻綾子(頼朝の妻政子の妹)を亡くしてからは、入道重成と称し、長男の小沢小太郎重政に譲り、自らは枡形城へ移ったと言われている。
鎌倉時代末、元弘三年(1333年)新田義貞と北条高時が分倍川原の合戦が起き、新田義貞が鎌倉幕府軍を破った。
南北朝時代、足利氏の分裂により観応二年(1351年、南朝正平六年)足利尊氏の弟直義軍の小沢城を、尊氏の子義詮の命を受けた高麗経澄が攻め落とす戦いがあった。
永正元年(1504年)扇谷上杉朝良を助けるため北条早雲の軍勢が山内上杉顕定を打ち破った戦いが起き、享禄三年(1530年)には近くの小沢原で16歳の北条氏康が武蔵最大の勢力を持つ上杉朝興を破り初陣を飾る戦いがあった。
天正十八年(1590年)北条氏滅亡後、廃城となった。
江戸時代には富士講が流行し、文化三年(1806年)に富士塚の祠が、万延元年(1860年)に「富士登山三十三度大願成就」記念碑が建てられた。