三春城 (みはるじょう) (舞鶴城)
最寄地 福島県田村郡三春町南町26 2014.4.14
三春城 (みはるじょう) (舞鶴城)
最寄地 福島県田村郡三春町南町26 2014.4.14
二の門跡
二の丸跡・児童遊園・土塁
大手道
城跡碑・説明板
本丸西曲輪
本丸・大広間
本丸・奥跡
三春城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高40m】
【案内・感想】 「三春町保健センター」(表記番地)の北東の「城山公園」が三春城跡である。
県道40号線に「お城坂」入り口があり、約400m北に行った所に駐車場入口がある[マップコード129 074 716*00]。
二の門跡より少し行くと道路西側に二の丸があり、 遊具の置かれた児童公園となっている。
大きく右折した本丸西下に駐車場が用意され 、さらに整備された石段の道を登ると「矢倉跡」があり石垣が残る。
本丸西曲輪 にはテレビ塔が建てられ、東が城跡碑や由来説明板の建てられている本丸跡である。
標高407.5m比高約40mの山頂の本丸跡には「戊辰役三春藩烈士碑」、「秋田家祖先尊霊」の石碑が建てられ、「奥跡」、「大広間跡」の曲輪がある。桜が植えられ桜の名所であり、三春の町並が眼下に望める。
三の丸跡は本丸東の山麓にある。
【歴史】 永正元年(1504年)田村義顕が築城したと伝えられ、以後田村隆顕、清顕と続いた。
天正十四年(1586年)に清顕が死去し、清顕に男子がなく田村氏家督が不在となる状況が生じ、清顕夫人(相馬顕胤の娘)が三春城主となった。
天正十六年(1588年)八月に伊達政宗は三春城に入城し、1ヶ月半程滞在して田村領の仕置を行い、家中から相馬派は一掃され、清顕の甥の田村宗顕を三春城主とした。田村宗顕は小田原征伐に参陣しなかった(政宗の指示による)ために豊臣秀吉の奥州仕置により改易となった。
奥州仕置によって、三春城は蒲生領となった。その後は上杉領、再び蒲生領、さらには加藤領となるが、三春城主には一族や重臣が配され、石高も5万石前後と一般大名なみの所領を与えられていた。
寛永五年(1628年)松下長綱が三春3万石に封じられ入城した。この松下氏時代に三春城は改修され、それまでの戦国城館的なものから近世城郭として生まれ変わった。
本丸、二の丸、三の丸を中心に形成され、本丸には表門・裏門・三階櫓などの建造物が置かれていた。
長綱は寛永二十一年(1644年)に改易となり、翌年、常陸国宍戸城から秋田俊季が5万5千石の領主として三春城へ封じられた。藩主は現三春小学校の場所に屋敷を構え、政務を行った。秋田氏が代々居城し明治維新まで続いた。
幕末の戊辰戦争の際、官軍(薩摩・長州・土佐迅衡隊など)が棚倉城を落とすと、断金隊隊長の美正貫一郎の尽力や河野広中らの働きによって秘かに板垣退助らと会談して三春藩は奥羽越列藩同盟を脱退、官軍に無血降伏した。そのため、三春城は周辺諸藩と違い、逆賊のそしりを受けずに済み落城をまのがれた。
明治四年(1871年)廃城令で廃城となり建造物、石垣のほとんどを失った。